千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

青山台の思い出(60代男性より)

  • 【住区】青山台
  • 【時期】1970〜1980頃
  • 【思い出】1967年当時、大阪はスモッグによる喘息など、空気が悪く、大阪大学の千里キャンパス移転に併せて両親が本宅のある大阪の帝塚山を出て青山台三丁目に家を新築したがほとんど居住せず、家族を連れて米国で2年間を過ごしたため、出国前の記憶はありません。
    1969年末に小学1年で帰国した時には、万国博覧会の会場建設の最終段階で、青山台の高台から色とりどりのパビリオンの建設を眺めました。万博会場では、地元の少年サッカー団が動員され、お祭り広場でラジオ体操を世界に向けて披露しました。小学生はみな万博のパビリオンのバッチの収集を競い合っていましたが、大変な混雑で、とても回り切れるものではありませんでした。公団などの団地はすでに建設されていましたが、まだまだ空き地が多く、ドラえもんの風景のように子供の遊び場となっていました。とは言え、戸建て住宅も物凄い勢いで建設されていき、青山台小学校は増築だけでは追いつかず、一時はプレハブ校舎が建っていました。万博の気風か、学校には放送室があり、校長先生のテレビ朝礼や子供たちの自主放送を各教室のテレビで見ていました。卒業した6年の頃には、生徒を収容しきれず、北千里小学校が建設中だったと記憶しています。おそらく、子供の人数はその頃がピークだったのではないでしょうか。空気は山が近くて良かったのですが、70年代前半にはしばしば光化学スモッグ注意報が発令されていました。
    各地区に近隣商業センターがあり、青山台にはグリーンストアというスーパーと文房具、運動具、酒屋、喫茶、理容店等の店舗がならんでいました。隣の新千里北町はスーパーではなく、大きな建物に八百屋、肉屋や魚屋の売り場が並んでいたと思います。医療地区なども決まっており、駐車場台数など、今の時代はどうやって適応しているのだろうと時々思い返します。当時は教育熱心な時代で、町中のお宅で、書道教室、英語教室、ピアノ教室、絵画教室、バイオリン教室、そろばん教室、塾など個人のお教室がいっぱいありました。友達は体操教室に行っていましたから、集会所などでそのような活動もあったのではないか。風の彫刻で世界的に有名な新宮晋さんとは行き来がありましたし、ピアノの先生は大阪音大の教授の方でした。当時は大阪本社の上場企業役員の方々も周りにたくさんお住まいでした。私は中学からは私学に進学しましたが、かなりの数のお子さんが関西の名門一貫中学に進学したと記憶しています。
    大人になって知りましたが、青山台では戸建ては片側に固まっていて、1丁目や2,4丁目の団地は公団や公営など、性格付けが明確すぎて、人数も多く、帰る方向も違うので、イジメという程ではありませんが、戸建ての子供たちは少し肩身の狭い思いをすることがありました。高校の頃に実家は東京にひっこし、大学からはずっと東京生活で戻る機会がありませんでしたが、先日、久々に車で千里を走る事があり、並木道の木々が育ってとても美しく、また、住宅地も高齢化は進んでいるのでしょうが、美しい街並みが残されていて、とてもうれしく思いました。子供の時は何とも思いませんでしたが、流政之や新宮晋などの彫刻オブジェや緑地やポケットパークがいたるところにあり、少し箕面の方に行けば自然も豊かな素晴らしい環境でした。都市計画の骨格がしっかりしていたのと、やはり、集まった住民の方々が良かったのでしょうね。関東では、ニュータウンでコミュニティ崩壊しているところも良く聞きます。これからも街を大切になさってください。
  • 【性別】男性
  • 【年代】60〜69歳
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