千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

千里ニュータウンにゆかりのある人物

千里ニュータウンは、1962年にまち開きをしました。まち開きからこれまでに多くの方々が様々なかたちで千里ニュータウンと関わりを持ってきたと思います。ここでご紹介するのは、千里ニュータウンで暮らしたことのあるアーティスト、作家や、千里ニュータウンに関わる作品です。
ニュータウンは、一般的に人工的、画一的で、綺麗に作られ過ぎているというイメージで捉えられることが多いように思いますが、千里ニュータウンにゆかりのある方々の思い出からは、長屋という表現が使われたり、セルシーやギャラリーなど住宅だけでない場所に言及されたりと、一般的なイメージとは少し違った千里ニュータウンの姿が浮かび上がってきます。

他に千里ニュータウンにゆかりのある方々は他にも多くいらっしゃると思いますので、このページを随時更新していく予定です。

(※以下では、千里ニュータウンの変化をお伝えするために、生年月日の早い方の順番に掲載しています。)

田辺聖子(たなべせいこ)

  • 生年月日:1928年3月27日(~2019年6月6日)

大阪市生まれの作家、田辺聖子氏の『すべってころんで』は千里ニュータウンに暮らす中年夫婦を主人公とした小説です。1972年に『朝日新聞』の夕刊に連載され、翌年(1973年)に朝日新聞社から出版されました。1973年には、NHK『銀河テレビ小説』枠でドラマ化(主演は三ツ矢歌子)もされています。
『すべってころんで』には主人公夫婦の次のようなやりとりがあります。

「あまりにきちんと並べられた街路樹。
適当なところへ、いかにも適切にしつらえられたマーケット。
ほどよきほどに配置された医療センター。
『よう、でけとるやないか・・・さすがやな』
夫の太一が感心するのへ、啓子は手放しであいづちが打てず、思わず心外な声になった。
『できすぎ、やわ』
『オマエは何でそう、いちいち、ケチつけるねん、全く女というものは・・・』」
※田辺聖子『すべってころんで』朝日新聞社 1973年

『すべってころんで』は、「ツチノコブームの火付け役」だとも言われています(※)。


(※)古書山たかし「田辺聖子はツチノコブームの火付け役だった:1972年の連載小説『すべってころんで』の意義」・『東洋経済ONLINE』2013年12月4日

辻仁成(つじひとなり/つじじんせい)

  • 生年月日:1959年10月4日

パリ在住の作家、ミュージシャンの辻仁成氏は、ブログ「JINSEI STORIES」で、自身が作詞・作曲を手がけた「City Lights」(1992年11月1日にリリースされたセカンドアルバム「君から遠く離れて」に収録)は「千里ニュータウンへのオマージュ」だと記しています。

「ぼくの曲「シティライツ」は千里ニュータウンへのオマージュだし、ぼくは1970年の万博で動く歩道にも乗った人生経験があるのだった。どや、すごいやろ。」
※辻仁成「退屈日記「アジアの中心都市、大阪堪能、百連発!!!!!!!!!!」」・『JINSEI STORIES』2022年8月8日

「City Lights」には、「新しいビルが駅前にたちはじめる/懐かしいビルが思い出とともに壊される/自慢するところが何ひとつないこの街/つかれきった君が帰りたいと願うホームタウン」という部分など、千里ニュータウンの景色を描いたと思われる部分があります(※)。


(※)歌詞はPetit Lyrics「City Lights」より。

佐竹雅昭(さたけまさあき)

  • 生年月日:1965年8月17日
  • 吹田市高野台で生活、大阪府立北千里高等学校を卒業

空手家、格闘家で、K-1創設に携わった佐竹雅昭氏は吹田市出身。俳優・演出家の伊藤えん魔氏と同級生です(※)。


(※)吉村智樹「初めて人のやさしさに触れた街なんです。怪優・伊藤えん魔を救った「千里ニュータウン」【関西 私の好きな街】」・『SUUMOタウン』2021年6月28日

伊藤えん魔(いとうえんま)

  • 生年月日:1966年3月1日
  • 3歳から中学卒業まで吹田市高野台で生活

俳優・演出家の伊藤えん魔氏は、豊中市で生まれ、3歳の時(1965年)、高野台の11階建ての団地の4階に入居。その後、中学を卒業するまでの12間高野台で暮らしていました(※)。
伊藤えん魔氏は、千里ニュータウンは核家族を対象として作られたため、どの家族も父親は「普通のサラリーマン」、母親は「家で内職」と「家族のシチュエーションが似ている」と、当時を振り返っています。

「「みんな驚くほど家族のシチュエーションが似ているんです。どの家も、オカンが家で内職をしていて、オトンは普通のサラリーマン。クラスメイトの家へ遊びに行くと、たいてい友達のオカンがラジオのトランジスタをはんだ付けしていました。内職しているオカンの横でトランプしたり、テレビを観ていたりした憶えがありますよ。『あんたら、うるさい。静かにし!』って怒られながらね。どの団地のどの家へ行っても、似たような雰囲気でしたね」」
※吉村智樹「初めて人のやさしさに触れた街なんです。怪優・伊藤えん魔を救った「千里ニュータウン」【関西 私の好きな街】」・『SUUMOタウン』2021年6月28日

伊藤えん魔氏が小学校4年の時、母親が恋人を作って家を出て行った。父親は元々年に2~3回しか家に寄り付かない人だった。そのため、中学卒業までの6年間、姉と2人で暮らしをしていました。生活費は父方の祖母に出してもらっていたようですが、このようにして暮らす伊藤えん魔氏のことを団地の住民は心配してくれており、家で食事をさせてもらったり、駅の高架下の炉端焼き屋でご馳走してもらったりしていたということ。
伊藤えん魔氏は、住民は「みんな同じ収入で、それぞれの家が同じような悩みを抱えている」、だからこそ、助け合うという気風があったと話しています。

「心配かけていたと思います。友だちの家で、よくごはんを食べさせてもらっていたんです。団地の皆さん、僕の家にオカンとかオトンがいないのを知っているから、『晩ごはん食べにおいで』と声をかけてくださる。・・・・・・。食後に『ありがとう。ごちそうさまでした。おいしかった!』とお礼を言うと、『ごはん、つくり甲斐があるわ~』『またおいでな』『あんた、うちの子になったらええのに』とおっしゃってくださる。そういうあたたかく迎えてくれるご家庭が何軒もあって、厚かましいんですが、2週間ほどのローテーションを組んでいました(苦笑)」

「団地って、横にも縦にも並ぶ長屋なんじゃないかな。住む人はだいたいみんな同じ収入で、それぞれの家が同じような悩みを抱えている。だから助け合う。自分の家の子だけではなく、地域に住む子どもはみんな我が子のようにかわいがる。そういう気風がありました。近所のおばちゃんたち、駅前の酔っぱらいのおっちゃんたちに、かけてもらった情を忘れるなんてできません。育てていただいた。しつけていただいた。あたたかい情をいっぱいもらって少年期を過ごした。千里ニュータウン時代は僕の人生にとって、すごいお宝なんです」
※吉村智樹「初めて人のやさしさに触れた街なんです。怪優・伊藤えん魔を救った「千里ニュータウン」【関西 私の好きな街】」・『SUUMOタウン』2021年6月28日


(※)吉村智樹「初めて人のやさしさに触れた街なんです。怪優・伊藤えん魔を救った「千里ニュータウン」【関西 私の好きな街】」・『SUUMOタウン』2021年6月28日

葉加瀬太郎(はかせたろう)

  • 生年月日:1968年1月23日
  • 4歳から吹田市津雲台で生活、10歳で他の住区に転居し、高校2年の時に京都市に転居するまで千里ニュータウンで生活

バイオリニストの葉加瀬太郎氏は、4歳から千里ニュータウンの吹田市域の住区である津雲台に住み始め(※1)、2020年4月に市制施行80周年を迎えた吹田市のアンバサダーに就任。「Home Suita Home」は吹田市のために書き下ろされた曲です(※2)。

葉加瀬太郎氏は、千里ニュータウンについて、「長屋みたいに濃密なコミュニティー」だったこと、当時は「子どもの習い事が盛ん」だったことなどを振り返っています。

「第2次ベビーブーム世代だから小学校は一学年10クラスもあって、団地内も子どもだらけ。よくキックベースやキャッチボールをして遊んでたんですが、ボールが近所の家の窓ガラスに当たって、その家のおじいさんから『こらーっ!』と怒られることもあったな(笑)。団地のブロックごとに公園があり、池のザリガニを捕ったりして、子どもみんなが一緒になって育った感じです。
今の都会のように、隣に住んでいる人のことがわからないなんて、当時の団地ではあり得なかった。どの家も玄関は開けっ放し。長屋みたいに濃密なコミュニティーでした。みんなでワイワイ楽しむのが好きな僕の性格は、あの頃の団地暮らしで育まれたような気がします。
ヴァイオリンを習い始めたのも団地に移った年です。飲食関連の仕事をしていた父が、店のお客さんから『何か音楽をやらせたら?』とすすめられたのがきっかけだったと後から聞きました。ピアノは大きすぎて置けない。そこで、子ども用サイズのヴァイオリンを父が買ってきて、教室に通うことになったんです。
当時、千里ニュータウンでは子どもの習い事が盛んでね。親たちの世代は自分ができなかったことを子どもに託したんでしょうね。僕も例に漏れず、絵画にそろばん、剣道にサッカーと、一週間全部、お稽古事で埋まっていました。ヴァイオリンも情操教育の一環として楽しくお稽古しましょうという雰囲気でした。」
※「未来を照らす1 スペシャルインタビュー 葉加瀬太郎さん」・『UR PRESS』UR都市機構 vol.38 2014年

葉加瀬太郎氏は、ニュータウンには「ある意味『ふるさと感』はない」けれども、「ニュータウンの良さはまさにそこにあると思う」とも話しています。

「大阪で生まれ千里で育ったことはもちろん、僕にとって大きいことです。千里ニュータウンは、古くから何代にもわたって同じ家族が住む田舎町ではなくて、全く違う場所からいろんな家族がやってきて隣同士で住んでいる。そして今も、新しい世代が異なった場所からやってきますよね。こういう感覚が自分の中に植え付けられているので、ある意味「ふるさと感」はないんです。でも、ニュータウンの良さはまさにそこにあると思う。色んな人が集まって、みんなで楽しくやれる。そして、しがらみがない分、新たな世界に羽ばたいて行ける可能性が広がるんじゃないでしょうか」
※「葉加瀬太郎氏スペシャルインタビュー 「少年時代・津雲台」編」・『CityLifeNEWS』2017年4月24日


(※1)「葉加瀬太郎氏スペシャルインタビュー 「少年時代・津雲台」編」・『CityLifeNEWS』2017年4月24日。なお、UR都市機構が刊行する『UR PRESS』(vol.38  2014年)に掲載されたインタビュー「未来を照らす1 スペシャルインタビュー 葉加瀬太郎さん」ページでは、「4歳のとき、千里ニュータウンの南地区(大阪府吹田市)に引っ越した」、「10歳の頃に同じ千里ニュータウン内の北地区に引っ越した」と記載されている。
(※2)「葉加瀬太郎、出身地・吹田市のアンバサダーに就任 吹田市文化会館にてコンサートを開催」・『SPICE』2020年10月10日。この記事では「3歳から吹田市の千里ニュータウンに住んでいた」と記載されている。

矢井田瞳(やいだひとみ)

  • 生年月日:1978年7月28日
  • 上新田で生まれ、豊中市立新田南小学校、豊中市立第九中学校を卒業

シンガーソングライターの矢井田瞳氏は、上新田で生まれ、千里ニュータウン内の豊中市立新田南小学校、豊中市立第九中学校を卒業。大阪府立箕面高等学校、関西大学と、大学卒業まで北摂で暮らしていました(※1, 2)。友達と遊ぶのは千里中央が多かったということです。初めてギターを買ったのも、初めてのデートも千里中央。デビュー直後は、大阪で休みの日があると千里中央で曲を書いていたとのこと(※3)。

「高校時代はベンチに座って友だちとひたすら話したり、(2019年閉館、22年に完全閉館した商業施設)「セルシー」にあったミスタードーナツではテスト勉強をしたりしていました。
セルシーのゲームセンターにもよく行きました。」

「デビュー直後は大阪で休みの日があると、セルシーのミスドで曲を書いていました。曲を作るぞ、と思った時は集中できる場所や、リラックスできる場所を選ぶので、それが私にとっては、思い出の場所であるミスドでした。」
※「曲に溶け込む「全部の思い出」矢井田 瞳さんが語る千里ニュータウン」・『朝日新聞デジタル』2023年12月12日

矢井田瞳氏は、ニュータウンは「無機質」「画一的」と言われることがあるという質問に対して、「カチコチのニュータウンの中で育ったと思ったことは全然」ない、「閉館したセルシーも、ただの廃虚のように見えるかもしれないけれど、思い出がある私が見ると、今でもすごくカラフルな色がよみがえってくる感じ」があると話しています。そして、これからの千里ニュータウンについて次のように話しています(※3)。

「セルシーの閉館はすごく寂しい。でも、こんな大きな商業施設がなくなっても、「せんちゅうはさびれていくのか」みたいに地元の人たちが思っていないところが好き。私もすごく共感します。次に何かが建つときには、全国どこにでもあるお店だけじゃなくて、せんちゅうらしさが残っているといいなと思います。」

「私は今も、千里ニュータウンやその近くに来ると、すごく居心地が良いし、帰ってきたなあ、って思える場所。「帰ってきたい場所」であり続けてくれたら、うれしいなと思います。」
※「曲に溶け込む「全部の思い出」矢井田 瞳さんが語る千里ニュータウン」・『朝日新聞デジタル』2023年12月12日


(※1)Wikipedia「豊中市立新田南小学校」のページ。
(※2)Wikipedia「矢井田瞳」のページ。
(※3)「曲に溶け込む「全部の思い出」矢井田 瞳さんが語る千里ニュータウン」・『朝日新聞デジタル』2023年12月12日

森見登美彦(もりみとみひこ)

  • 生年月日:1979年1月6日
  • 幼少期に万博記念公園のそばで生活

小説家の森見登美彦氏は、幼少期に万博記念公園のそばで暮らしていました。2003年にデビュー作となる長編小説『太陽の塔』で第15回日本ファンタジーノベル大賞受賞。2020年には小説『四畳半タイムマシンブルース』が発売されました。『四畳半タイムマシンブルース』の発売記念リレーエッセイで、森見登美彦氏は次のように「タイムマシンがあったら『セルシー』へ行きたい」と書かれています。

「タイムマシンがあったら『セルシー』へ行きたい。
セルシーというのは、1972年から約半世紀にわたって、大阪・千里ニュータウンで親しまれてきた商業施設である。万博記念公園のそばで暮らしていた幼少期、ときどき親といっしょに出かけたことがある。小さなコンサートが開かれる屋外広場を、くねくねした何層もの廊下が取りかこんでいる不思議な眺めは、レトロフューチャー的というか、メルヘンチックというか、子ども心に忘れがたい印象を残した。残念ながら老朽化のため2019年に閉館してしまったが、たとえば80年代末、バブル期のセルシーへ行くのはどうだろう。屋外広場の人混みにまぎれてチョコミントアイスを舐めながら、子どもの頃の自分とすれちがってみたい。」
※「『四畳半タイムマシンブルース』発売記念リレーエッセイ「タイムマシンがあったら」:第1回 森見登美彦」・『カドブン』(KADOKAWA文藝WEBマガジン)2020年07月29日

このエッセイには、万博記念公園の近くに「ドライブ・イン・シアター」があったという思い出も記されています。

うらら

  • 生年月日:1988年5月23日
  • 吹田市津雲台で生まれ育つ

バンド「Salley」(2013年メジャーデビュー、2020年解散)でボーカル・作詞を担当する「うらら」氏は、千里ニュータウンの津雲台の出身(※)。建築、その中でも集合住宅が好きで、ウェブサイト上で「建物語り」という連載も行っています。この連載では、千里ニュータウンと、千里山団地(吹田市)、東雲キャナルコートCODAN(東京都江東区)とが比較されて。次にように書かれています。

「この千里山団地は、千里ニュータウンの団地群とは様相が少し違う。派手……というわけではないが、色々やっているな、という印象で、千里ニュータウンの団地のほうがよりシンプルだなと感じた。」
※うらら「【連載】建物語り by うらら(Salley)第四回<千里ニュータウンの先輩団地、千里山団地>」・『BARKS』2018年10月4日

「以前、こちらの連載で、千里ニュータウンの前に千里山団地というのがあって、千里山団地は遊び心があり面白いのだが、千里ニュータウンの建築時にはより実用的でシンプルになっている印象だという話を書いたことがある。昭和32年の千里山団地、そのあとに建てられた千里ニュータウン。そして、2000年代になり、「人が住む」ということに再び余裕ができ、また団地に遊び心が戻ってきたのだな、と感じた。」
※うらら「【連載】「建物語り」by うらら(Salley)第八回<最新で最後の団地>」・『BARKS』2019年6月18日

うらら氏は、吹田市について、次のように「上京して随分とたった今でも2か月に一度は帰りたい、大切な故郷である。実際帰っている」と書いています。

「大阪府吹田市、という街が他府県の方にも認識されているのはとても嬉しい。吹田市に生まれ、吹田市で青春のすべてを過ごしてきた。上京して随分とたった今でも2か月に一度は帰りたい、大切な故郷である。実際帰っている。
しかし、長い間不思議に思っていることがある。それは『吹田市出身です』と自己紹介をした際に、いまだに誰にも『ああ、千里ニュータウンの!』と言われたことがない、ということである。万博公園や阪急電車が映画や本の題材に取り上げられているのにも関わらず、それらと密接に関係している、しかも日本最初の大規模ニュータウンであるのに、こうも言われないものか。まあ薄々気づいてきてはいるが、特に団地や建築を好きという方でない限り、『日本最初の大規模ニュータウン!』とか言われても『へー』くらいなものなのだろう。うーん、ちょっと寂しいけど。」
※うらら「【連載】建物語り by うらら(Salley)第四回<千里ニュータウンの先輩団地、千里山団地>」・『BARKS』2018年10月4日


(※)うらら「【連載】建物語り by うらら(Salley)第四回<千里ニュータウンの先輩団地、千里山団地>」・『BARKS』2018年10月4日

塩谷舞(しおたにまい)

  • 生年:1988年
  • 吹田市古江台に生まれ23歳まで生活、大阪府立北千里高等学校を卒業

ニューヨーク、ニュージャージーを拠点に執筆活動を行う塩谷舞氏は、千里ニュータウンの生まれで、自らが立ち上げたオピニオンメディア「milieu」(ミリュー)には「『ふるえだい』で暮らすこどもだった」と書かれています。

「――みんなが祖国のことを語るのと同じテンションで、私はこう自己紹介する。
私の地元は、日本の高度経済成長にあわせて生まれた、大阪都心部のベッドタウンです。
そこでは町が美しく整備され、商業的な営みは限られたエリアでしか許されません。
たくさんの公園があり、子どもたちは親の目を離れて、日が暮れるまで町を走り回って遊んでいます。大人たちは都市部で働き、30分電車に揺られながら、家に帰ります。
とても日本らしい、合理的で、計算された、穏やかな平和を愛する町なんです。それが私の故郷であり、アイデンティティです。すごくユニークで、おもしろいでしょう?」
※塩谷舞「私の故郷はニュータウン」・『milieu』2018年12月14日

塩谷舞氏は、小学校高学年くらいになると千里ニュータウンは「つくられたユートピア」だと気づき始め、「とにかく刺激が欲しかった。退屈なこの町を飛び出して、どこか遠くに行きたかった」という思うようになったとのこと(※)。
23歳で千里ニュータウンを離れ、7年間東京で生活。そして、ビザの関係で3年間はニューヨークと千里ニュータウンの二拠点生活を送った後、アメリカに拠点を移されていますが、二拠点生活を送ったことで千里ニュータウンの魅力に気づいた、そのきっかけは、実家の古江台の近くにあるギャラリーだったと、次のように記しています。

「実家のある大阪の千里ニュータウンと、ニューヨークを行き来していると、次第に『何もない』と思い込んでいた千里ニュータウンだって、実はずっと魅力的なんじゃない?と思えるほどになってきて。東京もニューヨークも確かにすごく魅力的だけど、だからといって地方都市がなんら劣っているわけではない。23年間住んでいるときは気づかなかったけど、離れてやっと、気がつくことができました」

「住宅街の真ん中に、とても素敵なギャラリーがあるんです。外観は完全に家なのですが、ギャラリストさんの深い愛によって営まれている。交通の便も決して良くはないのに、個展となれば日本中、世界中から大勢の人が足を運んでいる。そこで生まれる空気や、集まる人たちの静かな熱狂を見ているうちに、何もない街なんて、ひとつもないんだと考えるようになりました。どこに行っても、少なくとも自分がいる。まず自分がいれば、何かを考えられるし、好きな空間もつくれる。人だって呼べる。それだけでもう、立派な観光地じゃないかと(笑)。大都市の魅力にあやからずとも、自分の信念で暮らしていけるって魅力的なこと。」
※塩谷舞「住む街は1つじゃなきゃ、なんてない。」・『LIFULL』2020年11月20日


(※)塩谷舞「私の故郷はニュータウン」・『milieu』2018年12月14日

(更新:2024年1月4日)