
(北大阪急行桃山台駅付近から千里中央と北摂山系を望む)
戦後の高度成長期、仕事を求めて多数の人々が地方から都市へやって来ました。多量の住宅が求められたことで、既成市街地周辺には住宅地がスプロール的に開発されていきました。こうした背景のもと、良好な住環境を備えた大量の住宅を供給するため、大阪府企業局により計画・開発されたのが千里ニュータウンです。
千里ニュータウンは大阪都心から北へ約15kmに位置し、吹田市と豊中市にまたがってひろがっています。それまで竹薮がひろがっていた千里丘陵に、面積1,160ha(吹田市791ha、豊中市369ha)、計画人口15万人、計画住宅戸数3万7330戸の、我が国初の大規模ニュータウンとして開発されました。1958年に開発決定、1961年に起工。大阪府と多くの専門家が総力をあげて取り組み、新しい理論と提案が盛り込まれた先進的・総合的な「実験都市」として建設され、1962年、佐竹台から順に入居が始まりました。
- 開発面積:1,160ha(吹田市:791ha、豊中市:369ha)
- 計画人口:15万人
- 計画住戸数:3万7330戸
目次
千里丘陵の歴史
千里丘陵の成り立ちと古代のすがた
千里ニュータウンが建設された千里丘陵は、大阪市の中心部の北約8~15kmの位置にあ
ります。約80万年前の地殻変動によって海底の地層が隆起して丘陵となり、さらに長年の雨水や表流水などによって多くの尾根と谷が入り組んだ地形が形成されました。古墳時代後期に朝鮮半島から渡来した工人による須恵器の生産地(吹田市千里窯跡群、豊中市桜井谷窯跡群)や平安時代の皇族の狩場(戦の訓練の場)などにはなりましたが、大きな川がないために水源に乏しく、江戸時代初めまで人が住むことはありませんでした。
江戸時代初めの「新田村」開拓
千里丘陵では、江戸時代初めの1626年(寛永3年)に現在の吹田市の山田下村や佐井寺村から入植した農民の方たちによって、現在の春日(吹田市)から新千里北町(豊中市)に至る「新田村」が開村され、田畑の開墾が始まりました。南側には「下新田」、北側には「上新田」と呼ばれる2つの地区があり、上新田は現在のニュータウン区域の中央部に集落が設けられました。これが現在のニュータウン区域の内側に人が住み始めた最初です。農業用水を確保するために樫ノ木池(現新千里北町・樫木ノ公園)や安場池(現新千里東町・千里中央公園)、春日大池(旧称字玉子谷溜/現桃山台・桃山公園)をはじめとする大小のため池が農民の方たちの共同作業によって築造されました。
千里丘陵の農業
丘陵地形のため、田畑に適した平坦な土地は限られていましたので、江戸時代末期になると斜面を活用したタケノコ(モウソウチク)の栽培が始まりました。下新田では、モモなどの果物の栽培も盛んでした。現在も千里ニュータウンの公園や千里緑地にモウソウチクの竹林が受け継がれています。また「佐竹台」、「竹見台」、「桃山台」のように住区の名称に「竹」や「桃」の字が使われています。1953年(昭和28年)に大阪府三島郡新田村は廃村になり、上新田は豊中市に編入され、下新田は「春日」に改名して吹田市に編入されました。このような歴史を持つ千里丘陵に大規模な住宅都市「千里ニュータウン」が建設されることになります。

「田園都市」と「ニュータウン」の歴史
エベネザー・ハワードの田園都市構想
19世紀末のイギリスのロンドンなどの都市では、産業革命による工場の集中や人口の流入
によって過密で劣悪な環境が拡大します。このような都市の環境の悪化を目にして、イギリスの社会改良家エベネザー・ハワード(1850~1928)は、1898年(明治22年)の著書「明日の田園都市(Garden City of To-morrow)」で「田園都市(Garden City)」という新しい都市の建設を提案しました。都市周辺の田園地帯に「都市的生活の魅力と田園地域の良さを合わせ持つ」人口3万人ほどの職住近接の都市を建設することで、自然環境豊かな居住環境を備えた都市を生み出す構想です。ハワードは1900年代初め、ロンドン郊外にレッチワースとウェリンの2つの田園都市を実現させました。
田園都市の日本への波及…計画的郊外住宅地の建設
田園都市の考え方は急速に世界に広がり、日本では「池田室町住宅地」や「千里山住宅地」、東京の「田園調布」など、田園都市構想の影響を受けた住宅地が明治時代末から大正時代にかけて数多く建設されます。但し、都市の郊外に独立した「職住近接の都市」をつくるということではなく、「都心の職場に通う郊外住宅地」をつくるという形をとりました。これは戦後の日本のニュータウンの考え方に通じます。
田園都市のアメリカへの波及…「近隣住区論」と「歩車分離(ラドバーン方式)」の誕生
アメリカでも多くの田園都市が建設され、その中でも1929年(昭和4年)に入居が開始されたニュージャージー州のラドバーンの住宅地開発では、その後のニュータウン計画の考え方の基礎になる「近隣住区論」や「歩車分離(ラドバーン方式)」が実践されました。
■近隣住区論
アメリカの社会・教育運動家で地域計画研究者のクラレンス・アーサー・ペリー(1872~1944)が提唱した理論で、住民の孤立を防ぎ、コミュニティのつながりが自然に育まれるように1つの住区(まち)は1つの小学校区の広さとし、さらに道路や公園、商店街などの配置の工夫が提案されています(ペリー「近隣住区論」では1住区の広さは、小学校を中心に半径約400mと設定)。
ペリーの近隣住区論6つの原則(概略)
①地域のまとまりを生み出すために、1つの住区は1つの小学校区とする。
②住区の周りは通過交通のための幹線道路で囲む。
➂小公園とレクレーションスペースを体系づけて配置する。
③小学校や公共施設は住区の中央か公共広場の周りにまとめる。
④商店街は幹線道路の交差点沿いか隣の住区の商店街と向かい合わせになる位置に設ける。
⑤住区内は通過交通を防ぐような道路網とする。
■歩車分離(ラドバーン方式)
自動車時代の住宅地づくりの先駆的な取り組みです。住区を囲む形に配置された幹線道路と住区内部の「クルドサック(袋小路)」によって住宅地内への通過車両の進入を防ぎ、フットパス(歩行者専用道路)によって安全で快適な歩車分離の歩行者ネットワークが実現しました。ラドバーンの歩車分離は「ラドバーン方式」として、世界の住宅地に取り入れられていきます。

世界大恐慌から第2次世界大戦へ…田園都市建設の停止
ラドバーンでは計画された住宅地の一部が建設され入居が行われましたが、1929年(昭和4年)に始まった世界大恐慌のためにその後の建設は中止され、田園都市ラドバーンの全体計画の実現は幻となりました。大恐慌は1939年(昭和14年)の第2次大戦の引き金となり、田園都市構想による住宅都市建設は歩みを止めることになりました。
終戦後、イギリスで始まったニュータウン建設
イギリスでは、終戦の翌年の1946年(昭和21年)に「ニュータウン法」が制定され、田園都市の考え方を受け継いだ職住近接の「ニュータウン」の建設が始まります。1946年に建設されたロンドン郊外のスティヴネイジ(2,490ha)がイギリス最初のニュータウンです。イギリスに次いで世界各国で多くのニュータウンが建設されていきますが、イギリス以外のニュータウンのほとんどが都心に通勤する職住分離のニュータウンです。
千里ニュータウンの誕生と計画
千里ニュータウン誕生の背景
1955年(昭和30年)頃からの日本の高度経済成長期…工場や人口の大都市集中
日本は1945年(昭和20年)に終戦を迎え、その後1955年(昭和30年)頃から1973年(昭和48年)の第1次オイルショックまでの「高度経済成長期」に入ります。多くの企業や工場が東京や大阪などの大都市とその周辺に集中し、地方からの働き手の集中も加速します。世帯の細分化も加わって深刻な住宅不足となり、道路や下水道、公園といった都市基盤の整備が不十分な住宅地が都市近郊で拡大していきました。
※大阪府の人口は1955年(昭和30年)の約462万人が1965年(昭和40年)に約666万人となり約200万人増
千里ニュータウン開発の決定・誕生
大阪府は住宅問題の解決と新しい都市像実現のために、1958年(昭和33年)に「都市としての施設を持つ健康で文化的な生活を享受できる住宅都市」の建設を目指して、千里丘陵でのニュータウン開発を決定。ペリーの「近隣住区論」に基づいた大規模な住宅都市の建設です。建設地は大阪市の都心に比較的近く、都市の住宅難の解決を第一目的としていることから職住分離としました。建設用地の広さは1,160haに決まり、1962年(昭和37年)には佐竹台でまちびらきが行われて入居が始まりました。
※江戸時代初めの1626年(寛永3年)から続く上新田の村落は、その歴史が尊重されてニュータウン開
発から除外されました。
千里ニュータウン計画の主な特徴

3つの「地区」と12の「住区」
千里ニュータウンは「近隣住区論」の原則に沿って1小学校区1住区として12の住区で構成されており、さらに、3つから5つの住区で「地区」と呼ばれるより広いまとまりが設定されています。吹田側には5つの住区を持つ「南地区」と3つの住区を持つ「北地区」があり、豊中市側には4つの住区を持つ「中央地区」があります。千里ニュータウンは「住区」、「地区」、「全体」という段階的な地域のまとまりづくりによって、暮らしの場所への所属感や愛着心が育まれるように考えられています。

千里ニュータウン計画
- 所在地:大阪府吹田市・豊中市
- 事業主体:大阪府企業局
- 開発規模:面積1,160ha 計画人口15万人 計画戸数37,300戸
- 地区・住区:吹田市域2地区8住区 豊中市域1地区4住区
- 市域別規模:吹田市 域約791ha、約10万人 豊中市域 約369ha、約5万人
地区センター
「地区」の中心部には、駅やバス発着所、専門店・飲食店街、文化・行政施設などを備えた生活拠点として「地区センター」が配置されています。「中央地区センター」は大阪北部の副都心としても位置付けられ、新御堂筋東側は商業エリアとして人工地盤やショッピングモール、イベント広場、文化・交流施設などが設置され、西側は業務エリアとされました。
住区コミュニティの中心施設・・・近隣センターと小学校の近接設置
近隣住区論では「小学校や公共施設は住区の中央か公共広場のまわりにまとめる」としており、千里ニュータウンでは住区中央部に集会施設や郵便局、商店街などを集めた「近隣センター」を設け、小学校を隣接させることで住民同士や小学生と大人(社会)との交流が広がるように考えられました。ペリーの近隣住区論との違いは商店街の近隣センター内設置です。
■近隣センター
小売店舗やマーケット又はスーパーなどで構成される商店街と集会施設を1つのエリアにまとめ、住宅地内への買い物の車の進入を防ぎました。冷蔵庫普及前の計画時点では近隣センターは1住区2箇所の予定が、冷蔵庫の普及で高野台を除き1住区1箇所となりました。
■小学校
吹田市域では、幼稚園と低学年が通う幼低校(分校)と高学年が通う本校に分ける計画がありましたが、ニュータウン外との違いが生じるために実現しませんでした。
住宅
■さまざまな住宅タイプ
千里ニュータウンは住宅不足への対応だけではなく、さまざまな人たちが望む暮し方に応えられるように戸建住宅と多様な集合住宅(団地)・・・公営住宅と公社・公団(UR)の賃貸住宅、公社・公団と民間の分譲住宅、社宅など・・・が建設されました。住宅群の景観については、駅周辺は集合住宅によって都市的景観・環境を形づくり、周辺部には戸建住宅地を配置して郊外的なゆとりのある景観・環境となるように住区計画が行われました。
■中庭を持つ府営住宅と一部の公団団地への中庭の導入
府営住宅では団地内のコミュニティ交流の場の確保と歩車分離の生活環境の創出を目的として、建設初期から囲み型住棟配置を採用して中庭を設けました。しかし、1970年代後半から車を持つ世帯が増え、中庭の一部に駐車場が設置されて中庭の多くが歩車共存になりました。公団団地は1970年(昭和45年)に一部の団地に囲み型住棟配置が導入されました。
公園・緑地
■4つに分類される公園
「幼児遊園」(団地内の遊園は「プレイロット」)は誘致半径約100m、「児童公園」は誘致半径約250mで1住区2箇所、「近隣公園」は誘致半径約500mで1住区1か所、ニュータウン内外からの利用を想定した「地区公園」は1地区1箇所を基本としました。公園の設置は近隣住区論の「小公園とレクーションスペースを体系づけて配置する」に基づいています。
※現在公園の分類は、児童公園は「街区公園」、近隣公園は「近隣公園」又は「街区公園」、地区公園は「総合公園」に変更され、利用者の年齢層よりもコミュニティの段階構成に対応しています。
■千里緑地
ニュータウンが緑に囲まれた環境を保ち、将来の周辺部開発でニュータウン内外の建物が連なることを防ぐためにニュータウン外周部に緑地帯「千里緑地」が設けられました。緑地内はなるべく開発前の千里丘陵の環境を守り、継承することになりました。
前半建設住区と後半建設住区の計画上の特徴
千里ニュータウンの建設は1960年代に進められました。経済成長とともに公害が拡大し交通事故も急増していくこの時期には、住宅不足への対応に加えて健康的で安全な暮らしや環境保全が求められるようになり、住区建設を進めながら計画の改良が行われていきました。

日本最初の千里ニュータウンの歩車分離(ラドバーン方式)
■戸建て住宅地のラドバーン方式


■府営営住宅:ラドバーン方式の囲み型住棟配置


■後半住区:住区の主要施設を結ぶラドバーン方式(歩行者専用道路体系)

千里ニュータウンの変化
人口減少と高齢化
1970年代後半から始まる人口減少
千里ニュータウンは1970年に基盤整備が終わり、新住宅市街地開発事業は完了します。その後も住宅や施設の整備が進み、1975年(昭和50年)に人口は最多の約12万9、000人に達します。しかし、ニュータウン第2世代が進学・就職で転出し始め、ニュータウン内に若い世代を受け入れる住宅が少ないこともあって、1975年以降は人口減少が進みます。
1990年頃からの少子高齢化の進行
千里ニュータウンの公的賃貸団地(府営、府公社、公団(UR))は若い働き手の住まいの確保が大きな目的であり、将来は子どもの成長に合わせてより広い住宅に転居していくと想定されて狭い住宅が数多く建設されました。しかし、良好な居住環境や大阪都心への交通の利便性などによって、第2世代が転出しても親の第1世代の多くは住み慣れた住宅に住み続けることを選び、人口が減少しても世帯数は減らずに少子高齢化が進行していきました。
※団地建替えが始まる1999年(平成11年)は総戸数約40,800戸のうち公的賃貸集合住宅は約24,000戸・約60%。2017年(平成29年)年は総戸数約47,400戸で公的賃貸集合住宅約22、600戸・48%。



団地建替えの進行と市民、行政の動き
2000年頃からの団地建替えの進行
■団地建替えの経緯と建替えの理由
1980年代に社宅の分譲マンションへの建替えが始まりますが、本格的な団地建替えは府公社分譲団地(1999年頃~竣工)の建替えを機に活発化します。その後、府公社賃貸団地、府営住宅と公団分譲団地、UR(公団)賃貸団地の順に建替えが始まっていきます。建替えの理由は、住棟や住宅設備の老朽化、高齢者の中層住棟の階段の上り下りの負担、分譲マンションの建替えや新設による若いファミリー層の居住促進などが挙げられます。
■団地建替えと高層化
分譲団地の建替えは、中層住宅(4~5階建て)を高層住宅に建替えることで戸数を増やして分譲し、建替え費用を生み出します。府営住宅や府公社賃貸団地は、中層住宅を高層住宅に建替えることで敷地の集約を行い、生み出された余剰地を民間に分譲して建替え費用に充てます。余剰地には高層分譲マンションが建設されます。このような建替えによって千里ニュータウンの団地の高層化が進んでいきます。
市民交流・市民活動のあゆみ
■2000年頃からの市民交流・市民活動の活発化
吹田市域では、2000年(平成12年)に佐竹台連合自治会が住民参加の「佐竹台ラウンドテーブル」を設置し、団地建替えへの住民の要望をまとめて行政や建替え事業者に提案しました。また、市の呼びかけで「千里ニュータウンの再生を考える市民100人委員会」が組織され、2002年(平成14年)3月に再生ビジョンをまとめました。豊中市域の新千里東町は2000年(平成12年)に建設省(現国土交通省)の事業「歩いて暮らせる街づくり」推進構想の対象地区となり、住民が協力して「多世代居住」や「住民交流空間の整備」などのまちづくりの方向を定め、2001年に近隣センターの空き店舗に「まちの居場所」となるコミュニティカフェ「ひがしまち街角広場」を開設しました。
※「ひがしまち街角広場」は近隣センター建替えのために2022年(令和4年)5月に運営を終了
■2003年「千里ニュータウンまちづくり市民フォーラム」の創設
まちづくり意識の高まりは、2002年(平成14年)の千里ニュータウン40周年を機に「千里ニュータウンまちづくり市民フォーラム」が創設され、吹田・豊中両市域の住民がまちづくりについて情報交換を行い、協働して提案・実践する場となりました。

2007年と2017年、行政と公的住宅事業者等による「千里ニュータウン再生指針」の策定
建替えの進行と住民の関心の高まりを踏まえて、大阪府、吹田市、豊中市、UR都市再生機構、大阪府住宅供給公社と大阪府タウン管理財団(現大阪府都市整備推進センター)が協力し、住民団体代表の方たちの意見を参考にして2007年に「千里ニュータウン再生指針」が策定され、2017年に「千里ニュータウン再生指針2018」として改訂されました。2018年版の「目指す都市像」には、「多様な世代が交わり、楽しめるまち」「みどり豊かで、健康に暮らせるまち」「誰もが輝き、支えあうまち」「持続発展する、イノベーションのまち」「北大阪の核として、広域とつながるまち」「みんなで協働して、育むまち」を掲げています。
※イノベーション:技術革新、新商品の導入、新市場・新資源開拓、新たな経営組織の形成等を示す。
千里ニュータウンのこれから
人口減少
団地建替えの進展で2023年(令和5年)にはニュータウン全体の人口は最多の約10万3、600人となりましたが、2025年(令和7年)には10万2、800人に減少しました。2018年の大阪府の千里ュータウン人口予測では2025年からの人口減少が予測されています。
高層化の中でのコミュニティ交流の場の必要性
高層団地やマンションでは多くの人たちが共に暮らしているという意識で日常の交流を育むことが大切です。このことは、災害時の助け合いや防犯対策の面からも不可欠です。高層住棟居住や少子高齢化に対応した日常的な出会いと交流の場の充実が求められています。
コミュニティ交流の継続と新たな動き
集会所や近隣センターでのコミュニティカフェやレストラン、小学校の空き校庭での共同菜園など多世代交流が継続されています。2024年以降は、近隣センターや団地に「一箱本棚オーナー制度」のまちの図書室が誕生し、本を介した交流の場として定着し始めました。
千里ニュータウンのこれからに向けて
府営住宅とUR団地は建替えが続いていますが、2030年には府営住宅の建替えが終了する予定です。これからは、「千里ニュータウン再生指針2018」に掲げられた「目指す都市像」を、市民と千里ニュータウンに関わる事業者、大学、行政の連携で進めていく「協創」が必要な時代になります。これまでに積み上げられてきたコミュニティ交流の知恵を「多様な世代が交わり、楽しめるまち」の実現に活かし、住民の交流や健康づくりが考えられた多くの公園や歩車分離の通りなどを「多様な世代が交わり、楽しめるまち」につなげ、また、大阪モノレールや北大阪急行沿線の新たな都市拠点との連携によって「北大阪の核として、広域とつながるまち」を実現していくことが望まれます。
■参考文献・ウェブサイト
- 大阪府(1970)『千里ニュータウンの建設』大阪府
- 山地英雄(1980)『新しき故郷:千里ニュータウンの20年』学芸出版社
- 吹田市史編さん委員会(1990)『吹田市史』吹田市
- 豊中市史編さん委員会(2005)『新修豊中市史』豊中市
- 大阪府・豊中市・吹田市・独立行政法人都市再生機構・大阪府住宅供給公社・一般財団法人大阪府タウン管理財団(2017)「千里ニュータウン再生指針2018』
- ディスカバー千里(千里ニュータウン研究・情報センター)
- ニュータウン・スケッチ
千里ニュータウンの情報は以下のページもご覧ください。