ディスカバー千里(千里ニュータウン研究・情報センター)は、千里ニュータウンにまつわる思い出を募集する活動を続けています。先日、公団(現在のUR)の建設に携わっておられた方から、次のような思い出をお寄せいただきました。
「まだ公団住宅が未完成の時代。阪急千里山からバスで一本松停留所(多分現在の南千里駅付近)下車し、建設途中の公団各戸の完成を目指す手伝いをしてました。」
思い出に書かれている一本松停留所について、20年ほど前、佐竹台にお住まいの方から次のような話を伺いました。
「阪急が新千里山駅(現在の南千里駅)まで延伸する前、現在の駅のそばに『一本松停留所』というバス停があり、阪急千里山駅と国鉄吹田駅までバスが行き来していた(※1)。バス停の側には、開発前からあった一本松が残されており(※2)、『一本松停留所』という名前はこの一本松にちなんだもの(※3)。南地区センター建設のための造成工事の際、一本松は枯れて撤去されたが、住民の要望により施設完成後に2代目の一本松が植えられた。」
一本松は、南地区センター建設の際に枯れたため、万博の頃に2代目が植えられました(※4)。そして、千里ニュータウンプラザ(2012年9月にオープン)の建物は、一本松を残すように計画されました。しかし、千里ニュータウンプラザ建設の際に2代目の一本松も枯れてしまったため、3代目の一本松が植えられたということです。
そのため、現在、千里ニュータウンプラザの南西角(交差点の歩道沿い)で目にすることのできるのは3代目の一本ということになります。
(2012年7月、太田博一撮影)
■注
- ※1)大阪府が発行した『千里ニュータウンの建設』(1970年)には、「初期のバス輸送」として次のように記載されています。「千里丘陵の第1回入居にあたり、昭和37年7月、阪急バスと運転計画について打合わせを行ない、さし当たり阪急の千里山駅と国鉄吹田駅に通勤、通学者を運ぶ計画のもとに話し合いが進められ、その結果第1回入居戸数1,010戸の主要交通機関としての阪急バスの運行が決定した。」(p122)
- ※2)一本松の写真は「千里ニュータウンの風景」の「『住宅地区開発の記録 計画編』より、千里ニュータウン 一本松」(2023年12月22日)のページに掲載されています。
- ※3)一本松停留所という名称について、「千里ニュータウン+万博+∞…=吹田市立博物館!」の「市長が『ナツカシー!』と叫んだ写真」(2007年6月30日)のページに、「企業局の若手であった片寄先生がバス停の名前までつけさせられ、なーんにも他に目印がなかったので『一本松』という名前をつけたらその松が枯れてしまった」と記載されている
- ※4)山地英雄『新しき故郷:千里ニュータウンの40年』(NGS, 2002)に「現地で集合する時の場所はだいたい『一本松』の下というのが普通でした。その木は現在の南千里の千里中央線と千里一号線の交点の東北隅にあたる所に立っていた形の良い松の木で、いまのものは一度枯れたものを万博のころに植え替えられたものです」(p42)と記載されています。
(更新:2024年6月4日)