日本のニュータウンの多くは、昭和30年代後半から40年代にかけて都市郊外の丘陵地に建設されました。その中で、昭和37年(1962年)まちびらきの千里ニュータウン、昭和42年(1967年)まちびらきの泉北ニュータウン、昭和47年(1972年)まちびらきの平城・相楽ニュータウンの3つのニュータウンに共通するのは、アカマツ(赤松)が生息していた丘陵に建設されたということです。千里丘陵、泉北丘陵、平城山(ならやま)丘陵です。平城山丘陵の平城・相楽ニュータウンは奈良市と京都府木津川市にまたがるニュータウンです。アカマツは栄養分が少ない山の尾根などに自生し、樹脂が多く火力が強いことや窯に残るおき(燃えカス)が少ないという特徴があることから、古代には須恵器や瓦を焼成する燃料として使われました。須恵器などの原料となる良質な粘土は丘陵の堆積層から容易に採取でき、また、丘陵の斜面は登り窯の築造に適していました。
千里ニュータウン新千里東町 東丘小学校校庭のアカマツ
平城・相楽ニュータウン「赤松の道」のアカマツ
3つのニュータウンには、アカマツで器や瓦を焼いた古代の窯跡が遺跡として保存されています。泉北ニュータウンのある泉北丘陵は古墳時代の日本最大の須恵器生産地で、泉北ニュータウンとその周辺(金剛ニュータウンなど)を含めると500年間で約800基の須恵器の登り窯がつくられ、丘陵一帯は「陶邑(すえむら)」と呼ばれていました。千里ニュータウンが建設された千里丘陵にも古墳時代後期に多くの登り窯がつくられました。古墳時代後期の代表的な窯跡として豊中市北部の桜井谷窯跡群があり、千里ニュータウン新千里南町の千里緑地には桜井谷窯跡群に属する島熊山窯跡が保存されています。一方、平城・相楽ニュータウンのある平城山丘陵は瓦の生産地でした。平城山丘陵は平城京のすぐ北側に位置しており、奈良時代の平城宮の造営にあたって、宮殿や役所の瓦を平窯という形式の窯で生産していました。平城・相楽ニュータウンの奈良市と木津川市にまたがる公園には、瓦を焼成した歌姫西瓦窯跡と音如ヶ谷(おんじょがだに)窯跡が保存されています。
泉北ニュータウン大蓮公園 陶邑窯跡群(登り窯)
千里ニュータウン新千里南町千里緑地 島熊山窯跡(登り窯)
平城・相楽ニュータウン 音如ヶ谷公園
音如ヶ谷窯跡(平窯)
須恵器や瓦の生産に携わり、日本人にその技法を伝えたのは朝鮮半島から渡来した工人たちでした。工人は日本各地の有力豪族の首長がそれぞれ独自のルートで招いたようです。ニュータウンに残されたアカマツや窯跡には、朝鮮半島から海を越えてやってきた工人たちの物語が秘められています。
泉北ニュータウンのアカマツは古墳時代に伐採しつくされたこともあって尾根部にわずかに残るのみですが、千里ニュータウンでは公園や緑地、小中学校の外周部などでアカマツを見ることができます。平城・相楽ニュータウンには「赤松の道」と名付けられた緑道があり、アカマツが緑道のシンボル樹として保存されています。ニュータウン内に保存されたアカマツには、ニュータウン計画に携わった専門家の方たちの丘陵の歴史を残し、伝えようとの思いが込められているのではないでしょうか。アカマツは移植や栽培が難しい樹木ということもあり、さらにマツ枯れ病や台風の影響によって年々少なくなっています。私たちが暮らしている丘陵の歴史の物語を、生きた形で伝えてくれているアカマツが絶えてしまわないように、環境を整えて保全していくことが望まれます。
千里ニュータウン新千里北町 樫ノ木公園のアカマツ林
(注)須恵器
古墳時代中期の5世紀前半頃から平安時代にかけて日本で生産された陶質土器。古墳時代は
主に祭祀や古墳の副葬品として用いられ、奈良時代以降は日常の器としても用いられるよう
になるが、平安時代の10世紀に絶えた。堺市の陶邑窯跡群のページに須恵器の写真が掲載されている。
桜井谷窯跡群2-2号窯跡出土 須恵器の蓋つき杯(現場説明会で撮影)