千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

三世代で語る千里ニュータウン

千里文化センター・コラボで開催したパネルディスカッション「三世代で語る千里ニュータウン」の記録です。パネルディスカッションでは千里ニュータウンにお住いの3世代の方にお集まりいただき、まちびらき当時の暮らし、子ども時代の思い出、千里の将来などについて、それぞれの世代から語っていただきました。

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  • 2014年3月2日(日) 14:00~15:30
  • 場所:千里文化センター・コラボ 2階・多目的スペース

コーディネーター

  • 赤井直さん (豊中市千里文化センター市民運営会議副会長)

パネリスト

  • 石丸誠子さん (東丘公民分館副分館長)
  • 青木俊浩さん (東丘ダディーズクラブ会員)
  • 西中廣治さん (八中校区青少年健全育成会会長)
  • 松本直恵さん (東丘校区主任児童委員)
  • 今西雄基さん (千里NT50周年記念事業キャンドル実行委員)

※( )はパネルディスカッション当時の肩書き


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パネリストの千里ニュータウンでの居住期間


パネルディスカッションに登場する場所


赤井:今日は「3世代で語る千里ニュータウン」をテーマとしてパネルディスカッションをしたいと思います。偉い人の生活は歴史に残るんですが、庶民の生活は残っていかないんです。「ディスカバー千里」の目的でもある庶民の生活の歴史ということで、パネリストのみなさんから、どんな思いで、どんなことをして千里で生活されてきたかお聞きしたいと思います。

1.まち開き当初の府営住宅

とにかく子どもが多いというのが一番の印象です。

石丸:東町の府営住宅におります石丸と申します。府営住宅は昭和41の4月に北町、5月に東町の入居があって、私たちは5月に引っ越してまいりました。生まれたてと4歳になる前、2人の子どもを連れて4人で吹田から来ました。「新しいとこ行ったらがんばるぞ」という思いで千里に来たんですが、何もなくて「え~、どうしよう」と思ったのを覚えています。私は25歳、周りもほとんど20代、30代の方ばかりでした。とにかく子どもが多いというのが一番の印象です。あの頃、奥さんがたは家の中で内職をしてました。私もちょっと箱作りをしてたんですが、みなさんのように仕事が早くできないので、嫌にやって内職はやめたんですけど、地域のことは赤井さんたちと一緒にやってきました。
赤井:石丸さんが東町に来られた時、買物はどうされてましたか?
石丸:目の前にニッショーというスーパーができて、長いこと行ってました。
赤井:ニッショーしかありませんでしたよね。他の住区では、古江台が先にオープンしていましたね。古江台に行くには下り坂ですから、行きは乳母車でもいいんですが、帰りは大変で。それで、お母さんは逞しくなりました。
石丸:古江台と北町に行きました。東町の商店街はパン屋と駄菓子屋。お寿司屋さんがちょっとの期間ありましたが、食べ物屋さんはあんまりなかったですね。

2.歩車分離システム

東町はすごい、信号がない、学校まで歩いて行ける、こんな町が世の中にあるんだなぁと知りました。

青木:東町の東丘ダディーズクラブの青木と申します。私は千里ニュータウン出身です。祖父母が買った新千里北町の住宅に住んでましたが、結婚した時に家を出て豊中の南の方に引っ越しました。それから何年かして、子どもが幼稚園に行き始める頃、千里ニュータウンはマンションの建替えが始まった頃で、子どもが車道に出ずに遊べたり、車道を渡らずに公園に行けるということでニュータウンに戻って来ました。今、子どもを見ていると夜遅くなっても家に帰ってこない感じで、それは東町、北町とか、ニュータウンの特徴なのかなと思いながら住んでいます。
西中:西中と申します。今は箕面市に住んでいますが、以前は東町に住んでいました。私が育ったのは大阪市北区で、小学校4年生の時に阪急三番街ができました。当時、おもちゃは箱の中に入ったまま売っていたので、自分の手で触って買うことができなかったんです。CMで見たり友達が遊んでるのを見て買ってたのが、三番街ができておもちゃが手にとって触れる、おまけに楽しめるようになりました。中学校の頃から北摂方面に興味があって、箕面の山も月2回くらい行ってました。結婚して、どういう所で子どもを育てていくかと考えた時、子どもには自分ができなかった遊びをさせたい。そういう思いがずっとあって、自然があって楽しめる、自然を体験させてあげるには北摂方面かなと。一か八か、たまたま府営に応募したら東町が当たり、平成2年2月に東町に来ました。私は小学校1年の時自転車買ってもらったんですが、交通事故で友達が亡くなるということがあった。それで、学校で自転車に乗ってはダメと決められました。そのまま育ってきたので、東町はすごい、信号がない、学校まで歩いて行ける、こんな町が世の中にあるんだなぁと知りました。

0882新千里東町 こぼれび通り, 2011

歩車分離が徹底した新千里東町の遊歩道

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万博で働く外国人スタッフの宿舎だった新千里東町団地

松本:東丘小学校の主任民生児童委員をしている松本です。私は1970年、万博の年ですが、小学校3年の時に東町に来ました。その時の東町はインターナショナルで、C棟〔公団新千里東町団地〕では、外国の方が万博のために住んでいた。中に誰でも入れるプールがあるんですけど、プールに入っていると外国の方がわらわらと入ってきて衝撃でした。芸能人じゃないんですけど、橋のところに小学校の子どもがサイン帳持って立って、外国の方にサインを求めてたこともありました。それは後から学校に知れて、やめなさいと言われたという思い出もあります。千里中央にセルシーはまだなくて、ひまわり広場がありましたね。そこに大スターのオーヤン・フィーフィーさんが来て、サイン帳持って、ワクワクドキドキしながら聞きに行った覚えがあります。それが、ちっちゃい頃の思い出なんです。結婚して一旦この町を離れましたが、マンションの建替えがあり、戻って来ました。子育てするには歩車分離ができていて、安心で安全な町だと再認識しました。ほんとに住みよい町だと、景色がきれいな町というのが私の思いです。
今西:今西と申します。西中さんや青木さんと一緒に東丘ダディーズクラブに参加させてもらっています。千里のまちびらき50年の時にはキャンドルロードを手伝わせてもらいました。物心ついた頃から千里に住んでいて、今は宝塚に住んでいますが、2年前まで東町にいました。東町を離れて2年になるんですけど、結婚して子どもができたら、もう一回ここに戻って来たいなというのが本音です。団地祭りとかふれあい運動会とか、地域で何かするのはここぐらいじゃないかなと誇りに思っています。千里は自然がすごくて、小学校に行くのに車の危険がないんですね。宝塚では小学生でも横断歩道渡ったりしていますが、千里で育った者にとってはすごく衝撃的な光景で、「これが当たり前なのか? 東町はすごい町だな」と感じました。
松本:東町は車歩分離ということで、通学路に関してもすごく恵まれてますよね。伸び伸びと言ったら聞こえはいいんですが、逆に、東町の子どもが他の町に出ると交通ルールも守らず、自転車で我先にって走って行くこともある。交通ルールを知らず心配と言えば心配ですが、学校と地域で見守って、大人として指導できることは指導しないといけないと考えています。

3.昔の子どもの遊び

裏の公園ではほんとに毎日、朝から晩まで子どもの声が聞こえていました。

石丸:5階建ての府営住宅では、10軒ごとに階段室でまとまってるのですが、入居した頃は1つの階段室に10人以上の子どもがいて賑やかで、賑やかで。階段の下ではゴザしいてママゴトしてましたし、用事があったら「お母さん」って下から呼んで、お母さんが上から物を放り投げて渡したり。写真は私の住棟の裏〔中庭〕なんですけど、裏の公園ではほんとに毎日、朝から晩まで子どもの声が聞こえていました。夕方なったら「何々ちゃん」というお母さんの声があっちからも、こちからも。そういう状況の中で頑張って生きてきたんです。
赤井:その頃の子どもは、夕方、親に呼ばれるまで外で遊んでたっていうことですよね。夕方になったらお母さんが、大きな声で我が子を呼んでいるのが聞こえた。囲み型住宅になってた府営住宅の場合は、あの中で子どもが遊んでたので、お母さんたちが子どもを呼ぶ声が、もうほんとに全部に聞こえるわけなんですね。6時になったら「鉄人28号が始まるよ」ってお母さんが呼んだら、子どもは帰っていくという、なごやかな感じでした。公団の団地には、集会所前にすり鉢型の遊び場があって、小さな子どもはローラースケートをしに行ったんですね。すり鉢の中をローラースケートで走るわけです。それが危険だということになったんでしょうね、今は埋め立てられてしまいました。そして、大きくなったら自転車でそこを走っていたようです。男の勲章、「自転車で走られへんかったら男やないで」とか言って。これは子どもが大人になってから聞いた話ですが、当時聞いていたら「危ないからやめなさい」って言ってたと思うんですけど。青木さん、北町での少年時代と、東町での子育てを比べて、何か変化はありますか?
青木:千里は元々新しい町なので、思いっきり変化があるとは思わないけど、時代による違いというより、北町と東町の違いかもしれませんが、団体の活動が東町の方が多いので、子どもが参加する行事が多いと、子育てをしてて感じます。
赤井:東町は野球が盛んで、少年野球が2チームありました。その2チームで豊中市で優勝を競ったり。
石丸:少年野球チームはタイガースとライオンズがあって、うちの子どもはタイガースに入って、豊中市の代表になり大阪府大会に出たこともあります。大昔の話ですけどね、そういうことしかやることがなかったと言うんでしょうかね。それと同時に、その頃からボツボツ、塾に行く子どもが増えてきました。
青木:地域で違うのかも知れないけど、北町ではみんなで集まって野球やサッカーする時は、北町の野球グランドのすぐ横にある北町公園という大きい公園に集まりました。ラジコンで遊んだりするのは小さい団地の間の公園でしたし、高鬼は小さい公園の方がたくさん登るとこがあったので、ジャングルに登ったりとか、そういう遊びをしてました。逆に僕らの頃はゲームが、ファミコンが出始めた頃だったので、そんなにゲームをした記憶はないですね。毎日、公園で泥々になりながら遊んでたというような感じですね。

府営新千里東住宅-01

入居当初の府営新千里東住宅の囲みの中

府営新千里東住宅-04

アソカ幼稚園の園庭に集まる人々

4.子どもの人数の変化

運動場で家族と一緒に弁当を食べれるようにしたいという思いがあって。

赤井:昭和41年5月に府営住宅の入居があり、〔豊中市の〕指導で自治会を作りましたね。それまで隣組くらいしかなかったのが、千里で初めて自治会活動というものに接した。石丸さん、自治会活動はどうでしたか? 近隣のつながりにどんな変化があったと思いますか?
石丸:私はまだ若かったので、直接どうこうしたわけじゃなく、先輩方がやってくださいました。一度、自治会で東条湖ランドまでバス旅行に行ったのを覚えてますね。それから、自治会も府営住宅しかありませんでしたから、もくせい公園、ヤンキー広場って呼ばれてましたが、そこで府営住宅の自治会独自で盆踊りをしたり、映画会をしたりしていました。子ども会には私も関わって、土曜日、集会所で時間をもうけて、好きに遊べるようにしましたね。
赤井:どの家にも子どもが2~3人いたんですけど、何もこれと言ったものがなくて、子ども会作ろうということになったんでしたよね。その時、豊中市こ連〔豊中市こども会連合会〕のお世話役だった方が上新田にいらして、その方に指導していただいて子ども会を作りました。宿野の野外活動センターにキャンプに行ったり、遠足に行ったり、毎週土曜日は集会所で色んな行事したり、家にある図書を持ち寄って子ども文庫みたいなのをやってました。

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新千里東町のもくせい公園(ヤンキー広場)

0688新千里東町 府営新千里東住宅, 2009

府営新千里東住宅の集会所

赤井:青木さんが北町にいらした時、北丘小学校はどんな状況でしたか?
青木:児童数のピークは僕らの3~4年前だったと思いますが、ピーク時には1学年5~6クラスありました。そこからだんだん減っていって、僕らの頃は3クラスでしたが、クラス替えもありましたし、あったかい感じの雰囲気でしたね。
赤井:昭和50年から52~3年まで、教室が足りなくて、グランドにプレハブ校舎が建ってましたね。
青木:今は1クラスみたいですね。
赤井:北丘小学校は豊中でも1、2を競う少子化で。今は寂しいですね。
青木:寂しいですね。
赤井:千里の豊中市域には4つ町がありますが、それぞれ個性があると感じます。初めから入居する人が違ったというわけじゃないと思いますので、入居から40年たったからでしょうか。豊中市域には小学校が4校、中学校が2校なので、第八中学校で東丘小学校と北丘小学校の子どもが一緒になるんですが、その時の感想は?
青木:あの頃は北町、東町、パークヒルズの3つが一緒になりました。東町は全て団地ですが、北町は団地と一戸建てがあって一体感がない。中学校に入って東町の子を見てると腕白なガキ大将の子が多くて、クラスをがちっとしめてるのが東町の子。東町は団結感と強さがある印象受けました。北町にも腕白な子がいましたけど、どちらかというと団結力がない。パークヒルズは新しく来た人の子ども世代と思うのですが、上品で勉強ができるという雰囲気。ちょっとずつ毛色が違うなと感じました。

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北丘・東丘小学校の児童数の推移

今西:僕らが小学校、中学校の頃は団地の建替えが行なわれていて、小学校1年の時は40人で2クラスでしたが、卒業する時は25人くらいになってました。ただ、人数が少なかったからこそ、色々行って遊んでましたね。
赤井:子どもが少なくなってきて、色んな問題が起こるようになってきて、民生委員の中に主任民生児童委員ができました。ここは西町と一緒で、最初は西町の方が主任民生児童委員をしてたんですが、東丘小学校の最初の主任民生児童委員が西中さんで、その次が松本さん。今日のパネルディスカッションには東丘小学校の主任民生児童委員の二代が並んでます。東丘小学校で児童数が一番少なかった時は163人でした。西中さんは、その頃、2年もPTA会長をしてくださいましたね。
西中:子どもの友達が北丘小学校に行ったので、たまたま北丘小学校の運動会を見に行くことがあったんです。北丘小学校では、運動会では校庭でお昼を食べていました。その光景を見て、「確か東丘小学校では、運動会でもお昼を教室で食べてたよな?」と思いました。運動場でお弁当を食べるのかと思ってたら、子どもは教室に、親は家に帰っていくんですね。「なんやこれ、運動場に20家庭しかいないじゃないか?」という状態で。実はそれがPTAに足を踏み入れたきっかけだったかも知れないんですよね。会長になって、運動場で家族と一緒に弁当を食べれるようにしたいという思いがあって。当時、公民分館長だった赤井さんとも、ぜひそういうことがやっていけばいですよねと話をしました。PTA会長になり校長先生を説得して、運動場でお弁当を食べようとしたら、ものの見事に雨で実現できませんでしたが。また、人数が少ないためPTAや地域の活動から保護者が手をひいていくんですね。それではコミュニケーションがとれないんじゃないかという思いがあり、地域とのつながりが不可欠だと感じました。
赤井:東丘小学校の子どもが160人くらいになると、運動会をしても時間がもたなくなるんです。子どもが出ずっぱりになってしまって。1学年に20何人しかいないので演舞もできない。そこで、東町では公民分館と小学校で一緒に運動会をやるようになりました。子どもの人数が多かった時代、運動会は平日に行なわれていて、子どもは給食を食べに部屋にはいる。そこで、親と一緒に食べれるように、運動会を土日にして、地域と一緒にするようになったという経緯があります。当時の校長先生と話をしましたが、1,500人もいた子どもが160人に急激に減ったと。それまで、大人数に対する教育しか経験も意識もしてなかったので、160人にどう対応したらいいのか? どう子どもに接していけばいいか? 先生たちも模索しながら大変だったんですって。当時の校長先生からこう聞いたことがあります。その後、団地が建て替わる度に子どもがばさっと増えていき、今は小学校と公民分館で別々の運動会を行うようになりました。

5.子どもの遊びの変化

遊びは変わったけれど、根本は変わってないところがあると思います。

青木:千里にはこんなに自然があるのに、今の子どもは外で遊ばないのは寂しいですね。ただ、自分の子どもの頃と似てるなと思ってるのは秘密基地ですね。日曜日に誘われて見に行き、出来栄えを見ると、今の子どもはよく作ってるなと思いまいた。昔は段ボールを使って秘密基地を作ってましたが、今は段ボールをすぐ回収してしまうようで、その点は昔より厳しいなと。
松本:今のお話を聞いてて、すべり台とか鉄棒とか、砂場、ブランコが大体、基本的に全ての団地の中にあったと思うんですけど、今の子どもはかわいそうだなと思うのは、団地が建替えになり、ちょっと中で遊んでたら、厳しい方たちに「うるさいよ」とかって言われて。結局、大人の私たちが、子どもの遊び場を奪ってるところもあるのかなと感じます。
今西:僕らの時は深谷グランドでよく遊んでました。公団にもグランドがあって、赤土という有名な場所で、野球やったりサッカーやったりしてましたね。もくせい公園には、今もすべり台あるんですかね? 滑らないすべり台。
赤井:あります。
今西:東丘小学校でも運動場開放して、たまに遊んだりしてた。近隣センターに10円、20円握りしめて駄菓子を買いに行ったり、自転車が好きだったので色んなとこ走り回ったりしてました。今は外で遊んでる子ってあんまり見なくなりました。習い事とか多いとかよく聞きますし、遅くまで遊んでる子もいない。僕が小学校の高学年の頃、DSとかスーパーファミコンが出始めて、ゲームする子は家で遊ぶようになったのかなという気がします。
赤井:街角広場ができた時、街角広場の前で子どもが缶蹴りしたり馬乗りしてたんです。それを見て、子どもはどこでも遊ぶんだなあと思いました。子どもの遊びは随分変わってきましたが、きっとゲーム機がなければ、広場があれば、自然に昔のような遊びをするんじゃないかな。街角広場の前で子どもたちが遊んでるのを見てそう思いましたね。遊びは変わったけれど、根本は変わってないところがあると思います。
青木:近隣センターと言えば、子どもの頃、50円、100円で何個買えるって、僕らの子どもの頃は楽しかった。おもちゃでも本でも買えて、千里中央まで行かずにすんだのが、だんだん店が少なくなって、その場で買えないのは、今の子はかわいそうかな。近隣センターが活性化していけばと思いますね。

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深谷グラウンド(東町公園内)

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新千里東町近隣センターの街角広場(移転前)の前で遊ぶ子ども

6.人工的な町に手を加え続ける

ニュータウンは人工的に作られた町ですから、自分たちで手を加えながら住み良い環境を作っていかないと、いい町にならないと思うんです。

赤井:3代続かないと江戸っ子って言わないと言うけれども、千里も3代住んで千里っ子なのかなと思います。青木さん、松本さんは結婚して、子どもを連れてニュータウンへ帰ってきました。今、私は今西さんが結婚して、ニュータウンにも戻って来るのを心待ちにしてます。千里ニュータウンは元々人工的に作られた町なんですね。そういう町に住む私たちはハードの面も、ソフトの面も作りながら、50年近く生活してきました。ニュータウンは人工的に作られた町ですから、自分たちで手を加えながら住み良い環境を作っていかないと、いい町にならないと思うんです。そのためには近隣のコミュニケーションがなければ、自分のワガママだけでは町は作っていけない。また、千里には文化がないとよく言われますが、50年たった千里には文化ができてると思うので、この文化を大事にしてこれからもますます住みやすい町にしたいと思います。イギリスのレッチワースの話が出ることがありますが、千里は日本のニュータウンなんだから、日本人が自分たちの身の丈にあった町を、自分たちで作ろうという努力を失わずに、生活をしていくべきじゃないかなと思います。


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