千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

新千里西町の暮らし

新千里西町にお住まいの方々に、新千里西町での暮らし・思い出をお聞きしました。

  • 日:2014年10月7日(日)
  • 場所:新千里西町近隣センター
  • お話を伺った方 Aさん:60代男性 Bさん:80代女性 Cさん:40代男性

インタビューに登場する場所

1.西町ができた頃

〇:西町は千里ニュータウンの後の方に開発されましたよね。西町ができる頃、千里ニュータウンはある程度できてたと思いますが、その頃どのような感じでしたか?
Aさん:私は20歳くらいで、本町から吹田の方の大学に通っていましたので、この辺は比較的地理的な感覚があったんですね。親父から「これを申し込め」と千里西町分譲住宅地の申し込み書を渡されて、南千里の大阪企業局に申し込みに行ったらたまたま当たったんです。当たったから一度現地を見に行こうかと、お袋と一緒に来たんです。分譲住宅地ですからもちろん家はまだ建ってない状況ですし、○○号地という看板が出てるだけで、「ここが当たったのやね」と。お袋が開口一発、「こんなタヌキの出そうなところ嫌やわ」と。「本町にいるのに、なんでこんなところに移って来なあかんのか、嫌や」と言っていたのは覚えていますね。これから大丸と阪急ができて、万博で地下鉄も通って、どんどん良くなるとは聞いていましたが、そのイメージがどうしても出ない。
〇:お父様は、どういうお考えで申し込んでおけと言われたのでしょう?
Aさん:これからここは良くなるだろうという見方をしていました。色んなところに申し込んだけど全然当たらなかったという方もいて、「○○君、よく一発で当たったね。何か裏でしてるんちゃうか?」と言われるぐらいでした。ただ、当たった私自身は、そんなに良いものが当たったという気はなかったんですけど。
〇:その頃、万博開催は決まってたのですね。
Aさん:そうですね。決まっていました。
〇:そこからまた人気が出てきた。
Aさん:ただ、私は万博がどういうものかわからなかった。大学に通っている時、道路工事を色々やってるのを見ていたぐらいで。そうしてるうちに道路が完成し、江坂ぐらいまで車で行けるようになって、これは便利だなと。江坂ぐらいまで町を広げていくのかなというイメージは持っていたんですが、千里中央は江坂からまだ先でしょ。千里中央って名前は中央でも、私たちのイメージでは阪急千里山が千里だというイメージがあったものですから、わざわざ千里中央という名前を付けるのはどうなのかという気がしていました。でも、名前の通り、千里中央は千里の中央になりましたね。
Bさん:私は大阪府下の公団に片っ端から申し込んで、青山台の2DKにちょっと仮の住まいという感じで入ったんです。それまでは香里園にいたんですが、いわゆる文化住宅でした。青山台に遊びに来る方が、真っ白なマンションや団地がいっぱい建ってるのを見て、外国に来たみたいだと言ってました。万博の時、故郷の両親や親戚がどんどんやって来て、私のところで休んで交代で万博に行っていました。新千里西町は、主人が自分の生年月日を書いて申し込んだら、上手いこと当たって。当選っていきなり来たんです。落選の間違いだと思いました。主人に電話したら、主人も私が嘘を言ってると思って信じなかったんです(笑)。その時、条件があって、2年で家を建てなさいと。一坪5万円で、家は83坪ぐらいですから、400万円ぐらいになったのかな。すぐ払わないといけないということで。購入を辞退した人がいれば、次の方にいくようでしたが、私らの時は辞退がなかったようですね。
〇:青山台の公団の団地に住まわれていたから、ある程度千里ニュータウンのことはわかっていらっしゃったのですか? 2DKは仮の住まいだからということで、千里ニュータウンに住まわれたいと。
Bさん:家が欲しいという気持ちはありましたね。千里ニュータウンで大規模に分譲されるのは、西町が最後だったんです。それで申し込んだら当たった。でも、近所の方は当選がなかなか。人気が出てきたからね。
Aさん:そうですね。
Bさん:私の友達は、藤白台の戸建ての抽選に当たったのですが、「その区画が気に入らなかったら他の区画に変更されてもいいですよ」と言われたそうです。藤白台は100坪とか坪数は多かったですが、千里に人気が出てきてましたから、西町の私のところで83坪です。しかし、西町には住環境を守るため、細かく切って売らないという住民の申し合わせがあってね。
Cさん:素朴な疑問ですけど、今、坪5万円って聞くとすごい安いと思うけど、当時の物価ではどれくらいの感覚なのかなと。
Bさん:安かったです、貯金でいけました
Cさん:大卒の初任給は?
Aさん:大卒の初任給は2万9千ぐらいしかなかったです。たしか記憶ではそれぐらいしかなかったです。
Cさん:その時の5万円。
Aさん:そうですね。でも、百何十倍とかの競争率があるから。みな安いと思うから、それだけの人気があるわけで。
Bさん:私の友達が、青山台で鉄筋の平屋が並んでいるところが当たったんです。銀行に勤めてる方でしたが、月8千円ぐらい積立で返済されました。月8千円ぐらいは安かったみたいですよ。そこは大阪府が建てたのか、みな鉄筋の一階建てでした。
〇:最初は家付きと言いますか、建売だったんですね。後半は土地を分譲するようになった。

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戸建て住宅地

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建替えで建設された分譲マンション

2.故郷として戻れる町

Aさん:最初は一坪5万円でしたが、今ではそこそこの金額になっている。ちょっと語弊があるかもしれないですが、新しく二丁目に移り変わって来られる方はお医者さんが多い。そのようなところになってきたかなと。
Cさん:分譲マンションにしても、この辺は人気で値段も下がらないから、我々が新たに住まいを構えるとなると難しいなと。そういう意味で敷居が高くなりましたね。
Bさん:私がPTAをしてた時、同級生で西町に残ったのは2人だけでした。みんなニュータウンは高くて買えないということで、箕面とか周辺の方に家が欲しいと。特にC団地〔注:C棟は公団のこと〕の人がたくさん出て行かれた。
Aさん:ただ、そういう中でも「より合い所帯の二丁目」という部分、長い時間をかけてコミュニティも生まれてきましたし、色々まちづくりといったものもね。やはり住めば都、そこがひとつ自分のベースとなっている。一旦出ていった娘、息子がまた戻って来たり。
〇:小学校の時の同級生は戻って来られてますか?
Cさん:たくさん戻ってますね。この前、西町の夏祭りでもミニ同窓会みたいな形で、誰々がどこにいるとか話して。
〇:戻ってマンションに入られるのですか?
Cさん:そうですね。実家に入るか新たにマンションを購入されて。生まれ育った町に帰ってきたいということで。
Aさん:つい最近も分譲マンションが建ちましたが、ある方が娘夫婦を呼び戻して、住まわせたという話を聞きました。分譲マンションが建つのは嫌だという話は出ますが、この町が便利だから、お父さん、お母さんがいるところの近くに住みたいと言って戻ってくるという1つの現象だという気がします。親と同居される方もいると思いますが、近くでマンションを買われる方もいて。西町はマンションが建ってますから、人口が増える要因になってると思いますね。
Bさん:私の子どもの時は、高校までは地元に通ってましたが、大学になったら東京の方に行って、大学を卒業したら東京で就職したりして。団地の場合、同居はできないから高齢の人ばかりが残っていました。西町はちょうど社宅が売りに出て、いい時期に建て替えが始まったから、若い人が入って来ました。ただ、西町のC団地は1割以上の部屋が空いてるらしいですね。家賃が高いからリニューアルして若い人向きの洋風にされてますが、若い人はすぐに越して行かれるようです。
Aさん:西丘小学校や第九中学校を卒業して、一旦東京に行くけども、こっちに戻って来る。先ほど話した夏祭りのミニ同窓会みたいなものがあるということで、戻って来たいと思うのでしょうね。うちの娘も長い間東京におりましたが、結局はこっちに戻ってきました。
〇:故郷として戻って来る場所になっているのですね。
Aさん:しっかり故郷として根付いてきていることですかね。

3.分譲マンションへの建て替え

Cさん:最近、一番私が懸念してることは、子どもが中学受験をされることです。去年は全体の3分の2ぐらいが中学受験した。そうすると、子どもたちの活動範囲がたいぶ離れてしまうので、私たちのように夏祭りで久しぶりとか、そういうのがだんだん減っていくのではないかと。
〇:東町も同じですよね。小学生は増えるけど中学生は増えない。
Bさん:私が西丘小に行ったとき子どもの声や音が全くしないから、校長先生に「今日は遠足ですか?」と尋ねたら、「いえいえ違いますよ、全員いますよ」と。今は南校舎1つに全児童が収まるぐらいのようでした。私の子どもの頃は生徒が多くて1,100人ぐらいでした。一番少ない時は165人でした。今は、社宅が全部マンションに建て替わったので若い人が多くなり、生徒も多くなって540人ぐらいになりました。
〇:全て建て替わったのですね。
Cさん:ほぼ全部建て替えが終わりましたね。20年、30年後はまた違う雰囲気になるのかな。できれば、この雰囲気を保てるようにしたいですね。
Bさん:今は上新田で一気にマンションができてるみたいですね。
Cさん:この前行ったらびっくりしました。急にこんなのができているのかと
〇:竹林がなくなってね。
Bさん:上新田の竹藪は有名でしたね。

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西丘小学校の児童数の推移

4.文化活動の場

Aさん:マンションが建てられたことの引き換えとして、千里中央からホールがなくなりました。千里中央には色んなホールがありました。読売文化ホールもありましたね。今はほとんどないんです。先月、千里音楽祭を開催しましたが、千里朝日阪急ビルの貸し会場を借りてやったんです。イベントを起こす立場からするとホールがなさ過ぎる。
Aさん:まちづくりという意味では、経済性とかだけではどんどんマンションばかりになってしまう。
Bさん:マンションはセキュリティが厳しいですね。自治会がないところも多いので、地域づくりがしにくいです。

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集合住宅の建替えの様子(撮影:2007年)

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ジブラルタ生命千里ホール

0949千里中央 よみうり文化センター, 2012

よみうり文化センター

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よみうり文化センター

5.お祭り

〇:先ほど夏祭りの話が出ましたが、夏祭りは誰かが立ちあげられたのですか?
Aさん:そもそも連合自治会がね。元々は盆踊りって言って、小学校でやってました。盆踊りについて賛否両論あって、盆踊りに出店を出そうという発想から、盆踊りではなく夏祭りにしようと。近隣センターに原田神社の神様が祀られた神社があって。
Bさん:小さい神社やけどね。
Aさん:お神輿も出ましたね。
〇:西町にあった神社の鳥居が、今、上新田にあるんです。上新田の御旅所、天神社の門になっている。
Aさん:そうですよね。
〇:近隣センターでお祭りとかをされてたんですか?
Cさん:特別ないですね。
〇:お祭りは小学校ですか?
Aさん:そうです。
〇:盆踊りはお盆にされてたんですか?
Aさん:お盆近くですね。8月の終わりの土曜日にしていました。

千里タウンに神社建立の一番のり 新千里マーケット西町
開店以来、芸能人の公開録音、青空野菜市など多様な商法で消費者への利益還元を企図して好評を博している豊中市新千里西町の西町マーケットは府企業局の承認を得て千里ニュータウンに初の神社建立を実現することになった。
建立場所はマーケット屋上北隅で千里神社と呼称する予定。
同神社には豊中市桜塚元町三丁目の原田神社の祭神が祀られる。
原田神社(高畠光明宮司)は豊中市でも著名な神社でスサノヲノ命を主神に天照大神、菅原道真公を併せまつられている神社で千里神社にはそれらの神々の分身が鎮座されるとのことである。
来たる二十五日には、社殿が安置され、二十六日には鎮座大祭が行なわれる。鎮座大祭当日には五斗余りの餅まき行事(餅の中には百円硬貨など入れたラッキー餅がある由)や稚児行列などのお祭り行事が繰開げられる。これで神社仏閣に縁のなかった団地の人々にも信仰の足がかりになりそう。
※『千里タイムズ』第168号 昭和43年5月17日

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かつて上新田にあった竹林

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上新田の天神社の御旅所

6.季節の行事

〇:季節ごとにお祭りやイベントをされてるのですか?
Aさん:地域の活動団体でそれぞれ分担があって、社協は敬老の集いの行事がありますし、公民分館は体育祭、文化祭、スポーツ大会が年2回、社会見学、春の講座、夏の講座で物作りなどいろいろなことをしている。連合自治会では夏祭り、地域団体の方たちが一斉に集まる会。新成人の集いは西町、北町、東町、南町の4つの公民分館が集まって行う。千里音楽祭は九中校区が中心になって行っていて、今回は大阪府タウン財団の「千里ニュータウン賑わいづくり支援事業」から助成金をいただくことができましたので、入場無料でさせていただきました。
〇:この前、西町の商店街フェアをされていた時、若い人がからあげ屋をしてるのを見かけました。
Aさん:「西町フェア」ですね。からあげは父親会、公民分館はフランクフルト、社協はおでんをされて。これからも続けいければいいと思います。
Bさん:西町は住んでいる人の意識が高いですね。何かあったら協力しようと。
Aさん:やっぱり大阪っぽい色は残して行きたいですね。大阪らしい色を残したまちづくりをしていかないと。そのためにも地域の団体がやることに対して、住民にもっとボランティア意識を持ってもらいたいと思います。

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近隣センターで開催されている西町フェア

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近隣センターで開催されている西町フェア

7.地域のスポーツ活動

〇:子どもたちの野球チームとかは盛んでしたか?
Bさん:毎週水曜日かな、サッカーやってます。
〇:昔からサッカーを?
Bさん:昔は野球が多かったです。私の子どもが野球をしていた時は一軍と二軍があって、なかなか一軍にあげて貰えなかったり。今は、子どもの人数が減ってますし、サッカーの人気で野球をする子が減ってきていますね。この前、西丘小学校のグランドで練習してるのを見たら、小さな子どもも入れて全員が、1~12番までの背番号をつけてました。前は4年生以上とかでしたが、今はそんなことしてられないので。サッカーはもう少し多いと思います。
〇:大人の方はどうですか?
Aさん:西丘の公民分館が生涯学習ということで、文化祭や体育祭、社会見学、スポーツ大会などをやってて、一昨日の日曜もスポーツ大会をしました。台風の影響もありましたが、たくさんお集まりいただいて賑やかにやらせてていただきました。
Bさん:グランドゴルフもされてますね。
Aさん:そうですね。
〇:場所は小学校ですか?
Aさん:小学校です。
Bさん:グランドゴルフは、西町以外の人の方が多いですね。
Aさん:グランドゴルフはそうですね。同好会に参加される方は、他地域の方が多いということなんですけど。
Cさん:今、小学校は自由に出入りできるんですか?
Aさん:今のところそうですね。
Cさん:土日、暇だから学校行って遊ぶというのは可能ですか?
Bさん:5時までは開放してますよ。その代わり自分たちで責任もって下さいと、事故があっても学校は責任はとりませんよと。だから保護者がお世話してますね。
〇:子ども会とか、子どもの組織はあったんでしょうか?
Cさん:昔はありましたね、各地区に子ども会が。今はないですね。
〇:昔は団地ごとにあったのですか?
Cさん:あったと思います。
Bさん:子ども会は、親が世話しないといけないから嫌だと言う人がぼちぼち出てきて、C団地なんかも。逆にお年寄りの会を自治会単位で、「みどり会」や「もみじの会」というのを作っておられます。老人会も良いことですしね。
〇:子どもの行事で一番楽しかったのは何でしょうか?
Cさん:私は寝ても覚めてもサッカーばかりで。小学校に熱心な先生がいて、朝の7時から夜の6時までずっとサッカーしてました。おかげで、豊中で一番になりかけたんですが、決勝で負けてしまいまして。当時はサッカーが盛んで、正月でも休みでも時間があれば学校に行ってボール蹴ってましたね。Jリーグができる前の話ですね。子どもも多かったですし。1学年3クラスありましたが、男はほぼサッカーしてましたね。
〇:野球ではなかったんですね。
Cさん:野球もあったんですけど、当時の先生が熱心だったので。女の子も何人か、男の子に交じって試合に出てました。小学校2年から6年までみっちりサッカーでしたね。
Bさん:以前は剣友会の剣道と野球部はPTAが面倒見てました。警察官が教えに来て下さって。

8.中学校の思い出

Cさん:今、九中は十一中と肩を並べるくらいの中学に。
Aさん:そうですね。今、豊中では、学力的には十一中か九中って言う。西町エリアがなぜ人気があるかという理由の1つに、学校区があるんですね。だから、関東からわざわざこっちに引っ越しして来た人もいる。
Cさん:昔、九中は悪の巣窟みたいな暴走族全盛期でしたよ。
〇:ここにもいたんですか?
Cさん:そりぁ、ようさんいましたよ。変形ズボンを履こうとすると、放送されてパンツで帰らせられたり。私じゃないですよ、聞いた話ですが。
Bさん:教官室で、髪の毛染めている子の髪を黒く染め直したりね。
Cさん:当時の九中は、案外、恐れられてたんですよ。高校生の時、原付の免許をとって御堂筋を走ってました。後ろから暴走族が来るなと思ったら、同級生ばっかりやった(笑)。
Bさん:自動販売機が荒らされたりね。
Aさん:その九中が。今ではってことですよね。
Cさん:朝、学校に行ったら机が一切ないという時もありました、外に全部出されていて。今そういうパワフルさはないですね。
Bさん:卒業式の前日は、先生方が泊まり込みで警戒されてましたね。教育委員会からも見回りが来てね。
Cさん:でも、そういう人も成長して、大人になって道外した奴もいないし、若気の至りだけで終わった。ちょっとの間、青春を過ごすという土壌があるんでしょうね

9.島熊山との関わり

〇:子どもたちは、西町からどこかに遠征して遊びに行ってましたか?
Bさん:いえ、西町は島熊山があるので。第九中学の先生に聞くと、島熊山からは他校の生徒が来ないと。東町は古江台、竹見台もあるから他の中学生と交流がったのですが、西町は島熊山の坂を越してこっちまで来る子はないから安心だと言ってました。
Cさん:子どもの頃、よく島熊山でよく遊んでましたよね。
Bさん:島熊山がひとつの区切りになっていますもんね。昔、マンションができるまでは広い敷地があって、ハンググライダーの練習してました。豊島高校から上がったところの丘から。
Bさん:島熊山の池を埋め立ててヘリポートを作るという話があった時は、西町2丁目の自治会がすごく反対しました。夜は、ヘリポートまで坂に灯りをつけると言うから、「そんなことしたら、また暴走族が走ります」と反対しましたね。
〇:西町はある程度隔離されてるんですね。
Aさん:隔離されていますね。エリアとしてはね。
Bさん:豊中は平坦で山が少ないので、里山が島熊山ともう一か所ぐらいしかないんです。
Cさん:島熊山は豊中で一番高いですからね。
〇:歴史のある山ですしね。
Aさん:そうですね。歴史のある山です。
Cさん:万葉集に出ていましたね。
Bさん:今、高齢化して買い物から帰ってくる時に登りになるから大変です。
Bさん:3丁目の坂が特にきついんじゃないですか。
Aさん:島熊山は、今は入れないようになってます。「島熊山の雑木林を守る会」があって、そこが管理してます。
Cさん:僕らが子どもの頃、よく秘密基地作りましたけどね。
〇:島熊山の中で?
Cさん:中で。島熊山の古池には近寄るなと言われてましたが、行くなと言われたら行きたくなる(笑)。
Aさん:ここで釣りをね。釣りしたらいけないんですが、釣るなと言われたら釣りたくなりますね(笑)。
Bさん:怖い池ですね。
〇:中に入って行くと迷いますね、道が。
Aさん:古池はため池なんですよ。排水がないものですから、水の流れがなくて、夏場になると結構匂いがしますね。今、豊中市の方に話をしています。「費用はかかるとは言え、排水をしっかりできるようにしてくれ」と。「島熊山の雑木林を守る会」では、浄化効果のある水草を植えたりしているんですけどね。
Bさん:災害の時どうなるんでしょう。池が潰れたら西町の方に水が流れてくるのではないかと心配ですね。
Aさん:9月の集中豪雨の時、西町のバス停のところが地崩れなりました。バス停の擁壁が全部土砂で押し潰されてしまって、未だ改修できていないです。
Cさん:前もなってませんでしったけ?
Aさん:昔ね。根本的にやらないといけませんね。

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新千里西町から見る島熊山

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新千里西町から見る島熊山

10.故郷としての意識

Aさん:故郷の意識が根づいてきているなと感じたのが新成人の集いです。初めて九中校区で新成人の集いを開きました。人が集まるか心配してましたが、なんと卒業生の約65%が参加してくれました。豊中市の成人式に出た後、流れてきて来た人もいるのですが。やっぱり東京の大学に行ってても、お正月には帰ってきて、行事があったら参加しようと思ってくれる人がいるのはすごいなと思いましたね。
〇:それは他ではやっていないですね。
Aさん:その翌年、39期生が成人の集いの時には4つの公民分館が協力して行いました。
〇:その話はどこから出たのですか?
Aさん:最初、私が4人の公民分館長に声をかけて、「それは面白いからやろう」ということになりました。新成人になる5人ぐらいが中心メンバーで、我々地域のおじさん、おばさんが15人ぐらい加わって会議をするんですが、やるなら来てよかったと思うものにしようと。結果、かなり大勢の人が来てくれました。来年の1月にまたやるんですけど、ずっとそういうのが続いていって、次の世代につながれば縦のつながりもできると思ってます。


  • インタビューは千里グッズの会と豊中市との協働事業「千里ニュータウンの地域情報の「蓄積・編集・発信」システムの開発事業」(2011〜2014年度)の一貫として実施したものです。
  • 千里ニュータウン研究・情報センターでは色々な方から千里にまつわる話をお聞きしています。こちらのページもご覧ください。