千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

ユメと熱情のころ20世紀 060 千里ニュータウン(読売新聞, 2016年9月29日)

『読売新聞』に千里ニュータウン研究・情報センターの代表が掲載されました。


大阪府北部の大規模住宅地・千里ニュータウン。来月29日、「団地パンまつり&千里まち歩き」として一風変わったイベントが開かれると耳にして、どんな催しか興味を持った。
ニュータウン内にある12ある街のうち、新千里東町(豊中市)のUR団地の集会所などに、関西の有名パン店が集まって販売するとともに、国内で初めてできたこの大規模ニュータウンの一角を参加者にガイドと巡ってもらうという。
主催者の一つ、千里ニュータウン研究・情報センターの共同代表、太田博一(68)は「『ただ団地がたくさんある町』ではなく、千里は開発当時いろんな工夫と最新の考え方が取り入れられた。観光のように見に来てもらって、魅力を知ってほしい」と話す。

・・・(中略)・・・

自らも住民の一人で、この町の人々の暮らしを記録したり、調査やまち歩きをしたりと、活動してきた千里ニュータウン研究・情報センターの太田は福岡出身。環境設計を学んだ九州の大学の授業で千里の存在を知った。「博多湾沿岸の漁師町で育ったので『こんなふうに人が考えて、できていく町があるんだ。すごいな』と関心を持った」
卒業後、入社したコンサルティング会社が千里ニュータウンの住区の計画づくりに関わっていた。すでに開発は終わっていたが、担当した先輩たちから理念を聞いた。
歩車分離が取り入れられたのも、当時「交通戦争」と言われ、事故で多数の人が亡くなった時代背景が影響した。道路の形状は改良されながら、千里から全国へと広がった。
高度経済成長期とは言え、なぜこれだけ大規模な町を作り上げることができたのか。
「開発を担った人々は戦争をくぐり、焼け野原になった町を見ている。復興していきたいということが一つあったと思う。もう一つは、だんだんと公害が生まれてくる頃。住環境をしっかりと考えた町をつくるという願いは大阪が工業都市だったからこそ強く起こったのだろう」
マイカーが増えて団地の中庭部分にも駐車場ができた。老朽化した団地の建て替えが進み、「囲み配置」も減少してきた。変化の中だからこそ活動に力を入れる。「人のつながりを大切にしたこの町の個性を改めて知り、これからの町づくりにまた生かしていけたら」と。(文中敬称略)


*「ユメと熱情のころ20世紀 060 千里ニュータウン」・『読売新聞』2016年9月29日