千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

千里東町恒例の「春の竹林整備&地域交流会」が開催されました!

春の日差しのもとで・・・

この行事は、2001年9月にオープンしたコミュニティカフェ「ひがしまち街角広場」に集う人たちやボランティアスタッフの発案で2002年4月2日に第1回目が行われました。「ひがしまち街角広場」の活動終了後の2023年からは東丘公民分館の主催の行事として引き継がれています。整備を行う場所は千里東町公園の南側の竹林で、こぼれび通り(現在再整備工事中)沿いの広場に接した斜面です。3月末から雨の日がつづいていましたが、この日は久しぶりの晴天で、集合時間の10時頃には竹林に春の陽が差していました。

今年の参加者は子どもたちを含めて60人ほどでした。まずはラジオ体操で体をほぐし、日頃竹林整備を行っておられるボランティアグループ「千里竹の会」の代表の方の注意事項の説明と、ディスカバー千里のスタッフによる東町公園の長谷池や竹林の歴史の説明の後、参加者は竹林に入ってゴミ拾いを済ませ、タケノコ堀りがスタートしました。子どもたちからは「初めて竹林に入った」との感激の声が聞かれました。例年に比べるとタケノコの数は少なめでしたが参加者の皆さんは、普段はできない自然の恵みの収穫に熱中し、また、竹の会の皆さんに手伝ってもらったり、地域の方たちと力を合わせたりして1時間半ほどのタケノコ堀りを楽しんでおられました。広場のフジ棚の周辺にはディスカバー千里が作成した千里丘陵や東町の歴史をまとめた「大きな本」やパネルを展示し、参加された皆さんに見ていただきました。

公園のため池と竹林の歴史

現在の千里ニュータウンの区域に初めて人が住み始めたのは、寛永3年(1626年)のことです。山田下村から新田開発のために入植された方たちによって新田村が拓かれました。江戸幕府が開かれてから20年ほど後のことです。後に新田村は上新田と下新田(現吹田市春日一帯)に分かれますが、上新田の範囲は、現在の新千里北、東、西町と南町の一部に及ぶ山と谷が複雑に入り組む広大な範囲に広がっていました。千里丘陵には大きな川がないので、農業用水を確保するために入植後に村民の方たちが費用を出し合ってため池を築造しました。それが長谷池(東町公園)、安場池(千里中央公園)、樫ノ木池(北町樫ノ木公園)として残されています。一方農業は、比較的平坦な谷の部分に田畑が耕されていましたが、平坦な場所が限られているために斜面の活用が考えられ、モウソウチクが植えられてタケノコの栽培が行われました。東町公園をはじめとして、千里ニュータウンの豊中市域の公園や千里緑地で見られる竹林は上新田の方たちが江戸時代に植えられたモウソウチクの竹林です。最初に植えられた時期ははっきりとはわかりませんが、江戸時代の後期だと推測されています。

千里ニュータウン建設の後半の計画で重要なことの一つは、江戸時代に上新田の村民の方たちが農業のために築造したため池や斜面を利用して育てた竹林を積極的に公園に残したことであり、現在の考え方で言えば地域の「農業遺産」を受け継いだ公園計画が行われたことです。千里ニュータウンの計画・建設は日本の高度経済成長期に重なっており、自然や歴史よりも物的な豊かさに社会の関心が向かっている時代に、伝えられてきた環境資源を受け継いだ公園が住宅地内に整備されたことは評価すべきことだと思います。また、「千里竹の会」のボランティアの方たちが受け継がれた竹林を整備され、住民も年に1度ですが竹林整備を体験できることは、住民が地域の環境に関心を持つきっかになるものと考えます。竹林整備の活動がこれからも継続されていくことと、竹林が癒しの環境・景観としてさらに活かされるように「こぼれび通り」や沿道の広場の再整備が行われることを願います。

(竹林を保存した東町公園計画地を東側から望む:造成地は公園東側一帯の団地建設予定地(昭和41年(1966年)頃撮影/ディスカバー千里所蔵写真))