千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

新千里北町の「新住法」の看板

古い看板に見えるかもしれませんが、千里ニュータウンの新千里北町が、日本で初めて、「新住法」(新住宅市街地開発法)に基づいて開発されたことを示す看板です。

千里ニュータウンの開発が始まった1950年代には、街を作るための法律がなく、千里ニュータウンの前半の住区は「一団地の住宅経営」という団地を作る法律に基づいて開発されていました。1963年、「新住法」が成立し、後半の住区は「新住法」に基づいて開発されることになりました。先に書いた通り、豊中市の新千里北町(1966年入居開始)は、日本で初めて「新住法」に基づいて開発された街。この意味で、日本の住宅地開発の歴史においても貴重な資料です。

新千里北町には「新住法」の看板が2ヶ所設置されていました。
①北町2丁目第3公園の南西角
②医療センターのすぐ北側の住宅地

このうち、①の看板は2020年度の公園再整備の際、支柱がさび付いて倒れる危険性があるということで撤去されてしまいました。
②の看板はその後も残されていましたが、2024年9月12日に通りかかった時に、撤去されているのを見かけました。この数ヶ月の間に撤去されたようです。

ディスカバー千里(千里ニュータウン研究・情報センター)は、北丘小学校での出前授業で、子どもたちに看板を案内するなど、「新住法」の看板を大切な歴史を伝える資料と考えてきました。そして、豊中市の職員に看板を保存する可能性について伺ったこともありましたが、撤去ということになったようです。

(2016年10月の出前授業)

(2023年11月3日撮影)

人工的に作られたニュータウンは、歴史がない街だと言われます。そうした街において、「新住法」の看板は、開発という側面から街の歴史を伝える貴重な資料でした。そのため、看板が2本とも撤去されてしまったのは残念で、看板1つであっても保存することの難しさ、ニュータウンで歴史を継承することの難しさを実感させられる出来事です。