千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

理想的な人工都市:計画と開発

2006年9月1日から22日まで、千里中央の千里公民館で開催された「千里ニュータウン展@せんちゅう」の展示パネルをウェブサイト上で紹介するものです。

理想的な人工都市:計画と開発

1950年代後半、高度成長が始まろうとしていた。住宅が決定的に足りなかった。単なる団地ではない、先進的・総合的に計画された住宅都市が必要だと大阪府は考えた。専門家が集められ、近隣住区、歩車分離とクルドサック、囲み型の団地など、意欲的な提案にあふれた「実験都市」を生み出した。それが日本最初のニュータウン、千里だった。

壮大な都市づくり

「この度、大阪府で計画しました千里ニュータウンは、大阪の中心部より約15粁(キロメートル)、時間にして約30分のところにあり、しかも国鉄、京阪神の交通幹線が集まる地域に近い吹田市北部、豊中市東部にまたがる丘陵地帯1,200万平方米(約350万坪)で、自然の風美を生かし変化に富んだその地形は住宅地として絶好の環境にあり、近来他に類を見ない夢のニュータウンとして総合的に開発されております」(大阪府千里丘陵分譲住宅の販売パンフレットより)
日本で最初のニュータウンである千里ニュータウン(当初は千里丘陵住宅地区開発と呼ばれていた)は、1958年に開発決定、1961年に起工。佐竹台住区から建設がはじまり、万国博覧会の開催された1970年に事業終了した。わずか10年たらずで、北大阪の副都心としての役割ももつ計画人口15万人(3万戸)の住宅都市を建設したこと自体が偉業といってよいが、千里は、大阪府と多くの専門家が総力をあげて取り組み、新しい理論と提案によって建設された先進的・総合的な「実験都市」であった。

住まうための理想のしくみ

宅地と道路、幾つかの施設があれば、街ができるわけではない。それらをどのようなまとまりで構成するかが都市の設計である。千里ニュータウンでは、この「街をつくるまとまり(単位)」のあり方を徹底的に検討し、日常生活圏の広がりやコミュニティ形成に応じて、隣保区(近隣グループ)−近隣分区−近隣住区−地区−住宅都市という段階的で秩序だった構成で計画されている。また単一の社会集団を対象とするのではなく、様々なタイプの住宅形式を混在させている。
住宅配置においては、ラドバーン方式の歩車分離を原則とし、クルドサックを積極的に用いている。また、居住者の生活空間・活動の場を確保するため、囲み型配置を積極的に試みている。当初この中庭はママさんバレー等のスポーツにも活発に利用されたが、その後建設当初想定していなかった自家用車の駐車場設置や増築によって、本来の性格とは異なってきている。

革新的な学校デザイン

千里ニュータウンの小学校と幼稚園については、計画当初に「分校方式」と呼ばれる斬新な提案がなされた。
「分校方式」とは、幼稚園と小学校低学年(1・2年生)とを組み合わせた「幼低校」を「分校」として分区に設置し、2つの分区からなる住区には、各幼低校からの3〜6年生を受け入れる「本校」をつくるという構想である。
試験的にC住区(佐竹台)で分校方式が採用され、C2小学校が「幼低校」として建設されたが、現行教育制度に矛盾するという理由から、最終的にこの分校方式は実現しなかった。
しかし、学校のあるべき姿を思い描く志は行政内部に引き継がれ、千里の小学校においては、同一敷地内で低学年と高学年のゾーンを分離する「高低分離方式」が採用されたのである。
「高低分離方式」が採用された千里の小学校には、特徴的なデザインをもつものが多い。計画学的構成と建築デザインの両立した学校が、ひとつの地域にこれほど多く計画されたのは、きわめて珍しいことだといえるだろう。