千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

こぼれび通り樹木マップづくりの取り組み

千里ニュータウンで後半に開発された住区では、豊中市域の新千里北町(1966年4月入居開始)を皮切りに、安全・快適な歩行者路として住区内の主要施設を結ぶ形の歩行者専用道路が導入されます。歩車分離体系の新たな形でした。小・中学校、保育園、幼稚園、近隣センター、公園などの施設が車の通らない歩行者路で結ばれ、子どもたちにとっては安全な通学路が形成されます。この歩車分離道路体系は、その後建設される千里ニュータウンの住区に導入され、さらに全国のニュータウンや大規模住宅地に広がっていきます。

新千里北町の次に開発された新千里東町(1966年5月入居開始)では、この形の歩行者専用道路が千里中央の商業エリアを起終点にして住区全体に配置され、幹線ルートが主要施設を「コ」の字の形に結んでいます。「コ」の字型の南側にあって西の千里中央商業エリアと東の千里中央公園を結ぶ歩行者専用道路は「こぼれび通り」の愛称で呼ばれています(1993年市民公募により命名)。歩行者通路の両側に植栽帯を持ち、多様な種類の街路樹や花木が景観の変化と季節感を演出し、左右に緩やかなカーブを繰り返す道路線形は道の期待感を生み出しています。こぼれび通りはその後、全国のニュータウンや大規模住宅地に導入されることになる「緑道」のモデルとなった歩行者専用道路で、日本の住宅地計画の歴史の中で重要な位置づけの道路です。

ディスカバー千里は、千里のまち案内グループ「ぶらり千里の会」と共同して、こぼれび通りの樹木マップの作成に取り組んでいます。この通り沿いの樹木は、新千里東町の開発時に植えられた樹木やその後に新たに加えられた樹木がほとんどですが樹種が多様です。通りの周辺には千里丘陵の歴史を伝える樹木が見られます。千里丘陵の植生であったアカマツや江戸時代末にタケノコ栽培のために植えられたモウソウチク(孟宗竹)の竹林。また、UR団地の西側入り口付近には、メタセコイアが数本、団地のゲートツリーとしてそびえています。メタセコイアは太古に絶滅したとされ、1946年に中国で発見されて日本に種子と苗木が贈られ、日本各地で植えられた「生きた化石」とも呼ばれる樹木です。新千里東町の南側の上新田では、かつてメタセコイアの化石が発見されたことがあり、太古の千里と現在の千里がメタセコイアでつながっています。私たちは、樹木の紹介と合わせて、千里丘陵の歴史や千里ニュータウン開発の考え方、「こぼれび通り」の価値をも知っていただくことができればと考え、「こぼれび通り樹木マップ」の作成に取り組んでいます。

なお、大阪府が新千里東町の開発にあたって昭和39年(1964年)に作成した新千里東町の住区基本計画設計説明書概要書には次のような記述があります。庭園的環境づくりとまちを巡る歩行者専用道路の導入による先進的な住区実現への意気込みが感じられます。(J住区:新千里東町の工区名称、ペデストリアン:「こぼれび通り」をはじめとした歩行者専用道路)

「J住区は、この副都心に隣る住区として、理想的住区として計画された。即ち、欧米諸新都市で考えられているぺデストリアンと、自動車道路の徹底的分離を実現した。高密度高層・中層住宅群を数グループに分けて配置して、各グループはペデストリアン道路によって、幼稚園、小学校等の公共施設に便利に安全に結ばれ、且つ美しい庭園の中を通るように考えられている。」