千里文化センター・コラボで開催された第12回千里コラボ大学校講座「千里ニュータウンの回顧」(語り手:山地英雄氏)の記録です。
- 日時:2011年5月14日(土) 14:00~16:00
- 場所:千里文化センター・コラボ 第1講座室
語り手:山地英雄氏
【プロフィール】大正15年10月31日生まれ。昭和24年3月、京都大学工学部建築学科卒業。昭和23年10月、第1回国家公務員試験(建築職)合格。昭和24年5月4日、大阪府庁入庁、建築部住宅課技師。昭和56年3月31日、大阪府庁退職。昭和56年4月1日、(財)大阪府建設監理協会常務理事。昭和57年6月10日、同理事長。平成2年4月1日~12年12月、大阪府建築士審査会委員。平成12年3月、仏教大学専科修了。
1.千里丘陵の開発まで
この美しい千里の町と、これを作った経緯をみなさんにお話し申しあげて後の世に伝えていきたいというのが、私の今回の気持ちでございます。千里ニュータウンの回顧というのは単に私の思い出だけじゃなくて、千里ニュータウンの建設、それから、ここに住む多くの方の思い出を含んだものと思っております。
私は大東亜戦争後、京都の大学に入りました。当時、住宅営団から京都に帰って来られた西山夘三先生が『住宅問題』という本を出されて、日本では470万戸の住宅が不足しているという提言をされました。当時、大阪に行った時に大阪城から市内を見ると、全部焼け跡で大阪府庁、NHK、プラネタリウム、そういうコンクリートの建物だけがわずかに残っているだけでした。梅田の周りは仮設住宅が並んでいました。西山先生のご指示もあり、私は第1回目の国家公務員試験を受け、大阪府に赴任しました。
大阪府では、特に府営住宅の建設に専念するわけですが、最盛期で9,700戸の府営住宅を私の手で着工したことを覚えています。しかし、住宅を建てるだけでは、土地に限りがあるため都心のいい所はどんどん土地が買えなくなり、周辺に府営住宅が伸びていくという状態でした。そこで、どこか大きな団地を作りたいということで、大阪府で4ヵ所ばかり候補地をあげました。その中で選ばれたのが千里ニュータウンです。
この大きな偉業を提案されたのは播磨さんという知事室長です。昭和31年10月、千里ニュータウンの建設が、播磨さんの提案で首脳会議に持ち込まれました。会議で千里ニュータウンの提案を説明したのが私の直接の上司だった深尾さんです。提案を聞いた赤間知事からは、そのような大きな住宅地を造成して個人に住宅を提供するのは府のやる仕事なのか? そんなに大規模な用地が手に入るのか? と言われたのを思い出します。
昭和32年の予算では、経済優先でドイツのマルク債をあてた臨海工業地帯の埋め立てが優先して、千里の開発は取り残されました。当時、千里丘陵については、大阪府だけでなくて、住宅公団も注視していました。大阪府でも、府の住宅供給公社を実行主体にしたいという議論もありましたが、企業局には埋立地の先売りでお金が入ってきました。また、マルク債4億ドル〔1,800億円〕が企業局に入ってきたものだから、それを回転しながらやれば国に迷惑をかけずに千里開発ができるという利点を強調し、大阪府が担当し、住宅公団と公社はそれに協力するという結論が出たわけであります。
2.用地買収
開発は決定しましたが、これだけの土地をいっぺんに買うような腕っこきの職員は少なかったので、最初は物件調査から始め、徐々に土地を買い進めました。そして昭和35年代末には全体の70%を買い占めましたが、「はいはい」と言って売ってくれる地主は少なくて、未買収地の交渉に職員が行った時には、石灰をかけるとか、人糞をひしゃくでまかれるということで、大変苦労したようです。
千里丘陵地は時代劇のロケーション地にも使われていました。痩せた灌木しか育たない土地ですから、千里丘陵の中に入ると迷ったことが多かったです。当時、佐井寺から少し入った丘陵地にはショートのミニゴルフ場がありましたし、津雲台の南の区域ではクレー射撃場があって、我々が入った後もポンポンという音が響いていました。
千里丘陵には電柱が一本もなかったのが印象的です。今の古江台のはぎのき公園の北側には古江集落がありましたが、ここは満州からの帰還者の住宅にあてられた集落だと思いますが、吹田市内でも唯一の無電灯集落だったと言われていました。
3.開発計画
宅地開発は土の切り盛りですから、技術的には土木技術です。私は建築職の人間でしたから、土木工事に徐々に入っていきました。しかし、単に土を切り盛りするだけでなく、プランにしても最初はイメージプラン(基本構想)、パイロットプラン(基本計画)、マスタープラン(基本設計)、ディテイルプラン(実施設計)と、土の切り盛りの前提にこのような順序がありました。
昭和30年6月から7月にかけて、30日余り海外の視察が組まれて、日本からは30人ばかりが参加しました。アメリカのフィラデルフィアでは「よい都市の建設」という課題で500人ばかりが集まって議論していた会議に参加しました。視察では欧米10カ国で30カ所あまりの都市開発とニュータウン開発を見て、千里ニュータウンの開発のモデルを見てきたつもりです。イギリスのハーロー・ニュータウンと、スウェーデンのベリングビー・ニュータウンの2つが印象に残っていますが、特にベリングビー・ニュータウンでは千里の理想像に近いものを見て、非常に感激して帰ったのを覚えております。
千里でぜひ成功させたいという技術者としての夢がありまして、それが近隣住区理論、教育の高低分離、オープン医療です。教育の高低分離とは、幼稚園と小学校1・2年生は初歩的な教育、小学校3・4・5・6年生がその上の教育というように、高低で2つに分離するというものです。これを佐竹台に適用しようとしましたが、最終的には既成地域の問題があり、計画を取り下げ1住区1小学校、2幼稚園になりました。オープン医療については、千里中央に大きな病院を1つ作って、その下に診療所、それから個々の病院を作ろうという新しい発想をしましたが、現在はそのような状況にはなっていません。
4.町びらきまで
昭和36年7月10日に、南公園予定地の、今の牛ヶ首池〔あやめ池〕の南側を地ならしして、テントを張って華々しく起工式を行いました。けれども、会場からわずか300m離れたところでは、未買収地の収用反対のシュプレヒコールをあげていて、来賓の方の祝辞もなかなか耳に入らないくらい、反対の声が大きかったです。
起工式が終わって開発が始まりましたが、現場の仕事というのは非常に複雑で、単に道を作って家を建てるだけじゃなくて、水道、下水、道路の舗装、電気、ガス、電話、こういう工事が関わって、泥んこの中で現場は大変でした。
この他にまち開きまでに色々な問題が起こりました。まず、電車ですね。阪急は南千里から千里中央線に添って千里中央を通り、桜井まで結ぼうという計画を持っていました。しかし、北千里の方に行って欲しいという意見もありなかなか結論出ませんでしたが、入居にあわせて、とりあえず合意した新千里山駅〔現在の南千里駅〕まで延伸工事をしました。一方、千里中央については、御堂筋線が延伸してくれたら千里は非常に良くなるということで、地下鉄の延伸も力を注いだわけですが、市のモンロー主義っていうのがありまして、なかなか企業局のいうことを聞かない。それで、新しい会社、北大阪急行を作って御堂筋線を千里中央まで延伸しました。
上水道、下水道、それから焼却場をどうするかも非常に大きな問題でした。上水道は、西国街道〔171号線〕に幹線がありますので、府の村野浄水場から西国街道を通って、その幹線から引っ張れば容易なんですが、最初は仮の配水場を作ったわけですね。将来的にはそれを取り除いて、千里中央線〔北端〕の右と左に2つの配水場を作って両市へ流すという計画としました。下水道は佐竹台の端っこにもってこようという計画がありましたが、もっと南へもっていき、より広域の汚水を受け入れてくれという吹田市長の願いで、正雀処理場まで持っていくことにしました。しかし、そこでも反対があり、正雀川の左側に処理場を建設することとなりました。ゴミ処理は一番困ったんですが、最初は箕面に作るという計画だったんですが反対されて、高野台の緑地に計画しました。ところが法的な手続きをとって工事を発注した段階で反対に合い、万博の焼却場に持っていくことで解決しました。下水道にしてもゴミ処理にしても、色んな反対を経ながら1つの結論に達するという、大変苦しい状態でした。豊中市側については、市設の原田下水処理場と、伊丹市の清掃施設へ入れていただく、そこまでの埋設管は千里の事業で負担するということで解決しております。
なお、開発の法的拠り所ですが、最初は「一団地の住宅経営」という枠の中で事業を行っていました。しかし途中で、「新住宅市街地開発法」〔新住法〕に切り替えました。というのは、「一団地の住宅経営」は300~500戸くらいの団地を作るのが建前で、1,000~2,000戸というのは無理だったんですね。そこで西側の住区は新住事業という法律でやっていきました。法律を変えるということは、用地買収を拒否する方に対しても、ぜひ協力していただくという法的な裏付けをもっていました。
5.町びらき
昭和37年7月末に府営住宅が750戸、公社が150戸、分譲が110戸、計1,010戸の住宅が完成して入居祝いをするわけです。しかし、応募倍率が思ったより少ないんですね。14~18倍でした。今から見ると少ないとは言えませんが、当時、同じように募集した高槻の津之江では159倍でした。
昭和37年9月15日から入居が始まり、2ヵ月後の11月2日に千里ニュータウンのまち開き式が、佐竹台の広場で行われました。阪急が工事中だったため、バスで千里山、あるいは、千里丘まで行ってましたので、決していい環境ではなかったように思います。分譲価格は一番最初の佐竹台の分譲価格が坪、1万2,300円。1、2、3で付けたんじゃないかと悪口を言われましたが、これで分譲しました。
千里に関しては、起債はしたけれど、国の補助は一銭もいただかずに、事業そのもので全部、収支をしのいだわけですね。泉北ニュータウンにいくと道路の補助金がだいぶ入ってくるんですが、千里に関しては補助金は受けませんでした。
6.千里中央の整備
千里中央は大きな課題で、どの程度の大きさで千里中央が成り立つのかと考えました。あまり大きくすると岡町など在来の駅から反対があるということでした。最終的に南地区が5万坪、北地区が3万坪、中央地区が7万坪の大きさで3つの地区センターを作ったわけです。中央地区については、さらに御堂筋の西側にオフィスを3万坪もうけて、中央地区は10万坪の区域を考えたわけです。
地域冷暖房は、ちょうどこの時期、東京の新宿の都庁開発が進められていて、委託した業者も同じ人がやってましたが、新宿は元々付近にガスプラントがあったので、ガスプラントを利用した地域冷暖房にする計画に傾いていました。千里では電気かガスか、それとも違った燃料でやるのかという3つの提案があり最後まで揉めましが、最終的にはガスを地域冷暖房の主役にすることになりました。百貨店をつなぐ専門店の流れをどうするかですが、百貨店からは地下鉄から上がったらすぐ入口がある心斎橋のような状態にして欲しいという話がありました。駅をあがったところに百貨店があって、その向こう側にバスやタクシーの駐車場があるというイメージですね。しかし企業局としては、地下鉄を出たところを賑やかな専門店街にして、その横側に百貨店とを持っていくという意向を強く主張しまして、今のような配置となりました。
中央地区センターの御堂筋から西側の区域には、若い人が働ける事務所ビル群を置きたいと考えていきました。しかし、新住宅市街地開発法は、住民に必要なものだけを施設として提供するというもので、他から事務所を持ってきて入れる事業じゃないわけですね。ただ、千里では3万坪の事務所スペースを作ったものですから、ぜひ商業施設や事務所施設を入れて、千里中央の賑やかさをもっと盛り上げたいと考えました。この時には東大の高山英華先生、京大の西山夘三先生にご協力いただいて、万博に合わせて色んなオフィス街が入るということを、法律的な枠を越えて認めてもらったわけです。
万博に合わせて中央地区センター周辺の整備が急ピッチで進みまして、今のような大体の千里中央の形になりました。昭和45年3月14日に万博が始まり、万博会場の中央まで鉄道が走っていました。万博が終わり、9月14日から鉄道が本来の御堂筋線〔北大阪急行線〕に入ってくるようになり、本格的に千里中央が静かな町になってきたという状態です。
7.開発終了後
このようにして、昭和45年3月11日、万博中に行なわれたせんちゅうパル〔当時はサンタウン専門店街〕のまち開きをもって新住法による千里ニュータウンの開発は、法的には終わったわけです。その後、補完事業に入りました。それまでは千里の開発は府の企業局が主役でしたが、これからは吹田市、豊中市が主役となり、両市に色々なものを移管しました。
千里の開発事業に開して、成果を全国的、世界的に問うために千里ニュータウン20年祭り、25年祭り、30年祭り、40年祭りと、国内外の研究者を集めて記念式典を行いました。
20年祭りの一環として、千里開発センターに千里ニュータウン記念室を開設して、開発の総合調査委員会を発足させました。委員長が元の豊中市長の竹内さん、副委員長を私が勤めました。この時、自分が担当した計画部門を本にまとめました〔『新しきふるさと−千里ニュータウンの20年』学芸出版社, 1982年〕。
8.開発の効果
千里ニュータウン開発の効果は果たして何だったのかということですが、まず、住宅と環境がワンセットになった居住地のモデルを作ったことがあります。単に団地として300戸、500戸として作ってきた住宅供給の流れを、環境とワンセットになった居住地のモデルを我々は作った。2つめは千里北摂地域の乱雑なスプロール開発を防いで、魅力溢れる都市総合体「グレーター千里」地域を構成した。また、千里を開発し、土地を売ってる間の10年間くらいは、この辺りでは地価が上がらなかった。地価の高騰を防いだということでも効果があったと思います。
住宅政策への役割としては、1つめは好ましい住環境についての府民のコンセンサス作りに寄与したこと。居住環境ってどういうものなのかを、我々は一生懸命絵を描いてみなさんにお示しした。2つめは府下の住宅供給行政において、質、量の両面に寄与したこと。我々は単なる2DK住宅でよしとせずに、できる限り質の高い住宅を供給した。3つめは大規模開発の先達としての新しい法制改正に寄与したこと。大阪府が、一番に法改正の下ごしらえを作ったということです。新住宅市街地開発法なんかこれにあたります。4つめは大規模宅地開発の管理体制の確立への寄与で、これが千里センターです。千里センターを作って、管理体制作りを大阪府がやったわけです。5つめは住宅金融公庫の宅地資金融資制度の導入と各種補助制度の新設への寄与。例えば、分譲住宅を2年前に募集して、その後お金を少しずつ貯めながら2年後に手に入るという方法を北町で初めて金融公庫が実施しました。
千里NT開発の効果と課題(山地英雄氏資料より)
9.今後への課題
課題としては、まず居住性の向上と定住志向の定着、こういうものが課題になります。みなさんが、千里で住んでよかったなと思うような定着性をリードしようということです。2つめは住宅の質的向上と住環境のさらなる整備です。これは増築とか駐車場をどういうふうに作るかとか、環境のさらなる整備をすることがあげられます。3つめは年齢構成の老衰化対策。老齢化、少子化をどうカバーしていくか、これについては吹田市、豊中市が一生懸命やってますね。例えば泉北ニュータウンでは空き家が出てきているので、家賃を下げたり補助したり、そういうことまでやってますね。千里については非常に評判が良くて、空き家を心配する必要はないという状況です。4つめはコミュニティの成熟化への寄与。例えば、各区域で老人会とか色んな会合、コミュニティを作ってらっしゃる、それらが成熟するように寄与しようということです。最後に、中央地区センター区域の見直し、特に長谷池、及び周辺を今後どうするかということです。見直しをして、もっと大きな千里中央地区を作ればいいんじゃないかというのが課題であります。
町は生き物のですから、時間とともに変動、成熟する側面があります。住宅施設を利用する人口の変動、老齢化したり、若い者が出て行ったり、そういう変動をどう考えるかが課題です。それから自然や公園の再生と再整備です。緑は多いですが、ほっといてはいけない。もっと再生と再整備をすべきじゃないか。それから計画の適合・不適合の対応ということでは、各種法規についての評価と改変、こういうものを千里から声をあげて、中央の法整備までもっていこうというのが今後のやり方です。
「町づくりから幸せ作りへ」ということで、居住者にとっての住みよさがこれからの課題ですね。それからコミュニティの成熟化、これも今後の問題ですね。自主的な管理、改善への行動の評価については、これは各区域で自治会がやってますから、それを評価したり表彰したりする、そういうことをやらなければならない。
最後に、オールドタウンからホームタウン(ふるさと)へということで、千里が楽しいふるさとになるように、幸せ作りの町を作っていこう、というのが今後の課題として私は言っております。
私は府の職員として15年、管理協会という外郭団体で9年、コンサルで6年、全部で30年、直接・間接に、千里ニュータウンに関わってきました。また、住民としては40年になります。いつの間にか40年が経過しましたけれど、千里ニュータウンの開発は私一人じゃなくて、たくさんの人の協力を得ながら行ってきました。これまでは作る立場でしたが、今では住む立場から千里を暖かく見ております。
10.質疑応答
Q:上新田には神社やお寺がありますが、千里ニュータウンの地区にはないですね。
山地:やはり公共事業ですから、宗教的な施設には手を出さない、自ら神社を作るとかそういうことはできなかった。ただ、北摂墓地はよかった。あれは宗教的なものはないけれども、墓地として非常によかった、成功したと思いますね。
Q:住区の名前は最初に違う提案があったみたいですが、今の名前になった経緯をよろしかったら教えていただければと思います。
山地:我々ものを作る立場からは、南から桃山台に入って、ぱっと広がったのをみて桃源台という名前を考えたこともあるんですが。こういう提案を府の1つの案として提案した。けれども、地名を作るのは市ですからね。豊中は竹内市長の方針でもあったんですが、北町、東町、西町、南町と非常にはっきりした名前になりました。○○台は吹田市、○○町は豊中市とはっきりなってよかったんじゃないでしょうか。
Q:私は新千里南町の府営住宅に住んで43年になります。初めに来た頃は、こんな山奥でいったいどうなるのか? と思いました。大阪から、その頃は天六から京阪電車に乗りまして、南千里という駅に着いたんですけど、電車の途中でだんだん山奥に行くような感じで、これからどういう生活が始まっていくのかと心細い思いをしました。ところが南千里に着いたら結構なお店があって、まぁ何とかやっていけるんだろうなと思いました。住んでみると、その頃は私も若かったのですが、団地の中を見ますとほとんど30代が平均なんですね。新しく結婚されて入居してくる方とか。それでお盆、正月の頃になりますと団地が暗くなるんです。みんな親元さんへ帰られて、町に残る人が少なく、暗くて寂しくなるんです。普通、盆、正月言うたら賑やかなんですけど、みな子どもを連れて自分の故郷、親元へ帰ってしまうんです。それが最近は、盆、正月になると煌々として明るい町になりました。というのは、外へ出て行った娘さんたちが孫や子どもを連れて、故郷の新千里へ帰って来るわけなんですね。だから40年経てば、この町も落ち着いたいい町になったなぁと、ここから出ていった人にとってはいい故郷になったんだなぁと、そういう安心感と、何となく喜びも感じます。
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